アルカンシェル

高尾つばき

アルカンシェル

 青年はいつもの場所に腰を下ろすと、バッグからスケッチブックを取り出した。

 大きな公園では桜が満開であり、背景の青空には一片の雲もない。

 遠くから子どもたちの声や、お花見にやってきた人たちの笑い声がそよ風に乗ってくる。

 青年はスケッチブックを開き、続きの写生を始めた。


「せんせい……」


 ふいに幼い女の子の声が、背後から青年に向けられる。


「やあ、こんにちは。

 それじゃあ、準備ができたら今日も一緒に描こうか」

 

 青年は優しい眼差しで少女にほほ笑んだ。

 まだ十歳とおにも満たぬであろう女の子は、かなり使いふるしたお手製らしい布のバッグから、少し小さなスケッチブックと紙箱に入った二十四色セットの色鉛筆を丁寧に取り出し、青年の横にちょこんと座る。 

 目尻にある小さなホクロが、とても可愛らしい。

 青年はひとつうなずくと、自分のスケッチブックに視線をもどした。


 女の子は先生と呼んだが、実際には小学校の教師ではない。

 美大では美術教師の免許は取得したのだが、卒業後はアルバイトをしながらプロの画家を志しているからだ。


 ちょうど一年前、今と同じようにここで、まだ五分咲きの桜のスケッチをしていたときのことだ。

 背後に視線を感じ振り向くと、ちいさな女の子が目を輝かせながら絵をのぞき込んでいた。

 どうやら彼の描く絵が気に入ったらしい。

 青年が驚いたのは、その子の身なりだ。

 この頃では見かけない、一昔前のワンピース姿。

 垢染みこそないものの、かなり色あせている。

 それはおくびにも出さず、青年は横に座らせると絵を描きながら女の子と会話を始めた。

 教師の資格を持っていたのが役に立つ。


 女の子の貧しい家庭環境や、ひとりっ子で友だちもいないことがわかった。

 家にいるときには、集めたチラシの裏側に絵を描いていると、はにかみながら話してくれた。

 あしたも見に来ていいかと訊かれ、青年は微笑みながらうなずく。

 それから桜が満開になり、青年の絵が描きあがっていくまで、毎日女の子はやってきた。


「きみにプレゼントがあるんだ」


 青年は小さなスケッチブックと、二十四色の色鉛筆のセットを渡した。

 けして高価な品ではない。

 遠慮しながらも、女の子は嬉しそうに受け取る。


「ぼくの絵は、ほぼ完成だ。

 ここからはきみに、絵を教えてあげる」

 

 驚いた表情の女の子に青年は告げた。

 それから桜吹雪となって葉桜になるまで、写生の基本を丁寧に教えていく。


「上手いなあ、きみ。

 いや、これはお世辞じゃないからね」


「本当?

 嬉しいな。

 わたし、もっともっと上手になりたい。 

 おにいさん、わたしの絵の先生になってくれる?」


 春から夏、秋から冬に移ろいゆく公園の風景をふたりで写生していった。

 季節はまた春を迎え、師弟は今日もまた風景を紙に写していく。

 少し大きくなった女の子は、大きな瞳で満開の桜を見つめながらスケッチブックにかなり短くなった色鉛筆を走らせる。

 その絵に青年は満足げにうなずく。

 そして言った。


「ぼくは、旅に出るんだ」


「えっ」


「日本だけではなくて、世界を回ってもっといろいろな絵を描きたいのさ」


「じゃあ、もう先生に会えないの?」


「いつかまた必ず会えるよ。

 だってきみはたったひとりの、僕の大切な弟子なんだから」


 青年は今にも泣きそうな女の子の頭をそっとなでる。

 バッグから数本のサインペンを取り出した。

 自身のスケッチブックに以前描き終えた絵の隅に、小さな虹を描いた。


「それは?」


「うん、ぼくのサイン」


 青年は丁寧にその絵をスケッチブックから切り取り、女の子に渡した。

 満開の桜がモチーフであった。


「照れくさいけど、これを卒業証書としてきみに渡します。

 これからいろいろ楽しいことや、つらいことがあるだろう。

 でもね。

 きみの絵の才能は、師匠であるぼくが保証します。

 もっともっといっぱい描いてください。

 絵はきみの、大きな大きな味方です」


 青年は満開の桜を見上げ、言った。


 ~~♡♡~~


 アメリカの、とある大きな絵画オークション会場。


「それでは次です。

 本日のメイン、と申し上げてもよいでしょう」


 正装した中年のオークショニアは満員の会場を見渡す。


「アルカンシェル氏の、新作です!」


 舞台中央に、台座に載ったP10号サイズの画が運ばれた。

 53センチ×41センチの大きさだ。

 会場からどよめきが上がる。

 誰もが待ち望んでいた絵画の登場であった。


「タイトルは『守護』です」


 真っ白なカンバスの中央には鮮やかな桜の樹が一本立ち、銃を構えた真っ黒で表現された兵士が守っているような姿が描かれている。


「まさしくアルカンシェル氏らしい風刺であり、斬新な構図です。

 もちろん本物である証に、例のレインボー、フランスではアルカンシェルと呼びますが、サインされております。

 それでは十万ドルからスタートいたします!」

 

 オークショニアは象牙のハンマーを叩いた。

 

 ~~♡♡~~


 アルカンシェルと名乗る無名の画家が画商や絵画コレクターに知られるようになったのは、SNSの動画がきっかけであった。

 

 固定されたカメラが、さびれた商店街の閉じられたシャッターを映している。

 どこの国かはわからない。

 そこへ紅白ストライプの衣装に、道化師のマスクをつけた人物が現れる。

 片手には紙型、もう一方にはスプレー缶を持っている。

 

 道化師はカメラを振り向きお辞儀をすると、シャッターに向かい紙型を貼り、いきなりスプレーする。

 ゆっくり紙型をはがす。 

 そのシャッターには黒い色で絵が描かれていた。

 降り注ぐ大量の爆弾を、わが翼で防ぐドラゴンである。

 黒いドラゴンの下には、小さな子供たちが肩を寄せ合っていた。

 

 道化師はその子供たちの下に油性のマジックペン数本で小さな虹を描き、もう一度カメラに向かってお辞儀をした。

 映像はそこで終わっている。


 ステンシルアートと呼ばれる、型紙を用いたグラフィティであった。

 本来なら器物破損の犯罪だ。

 だが目の肥えた愛好家には、その絵が訴える熱い魂を感じた。

 音声は一切遮断されており、映像の最後に映画のエンドロールのように黒いバックに下から、『Arc-en-ciel』と白い文字がゆっくりと上がっていった。

 誰ともなく、その道化師のアーティストを「アルカンシェル」と呼ぶようになった。


 それから次々とアルカンシェルは動画をアップしていく。

 いずれも、絵画、もしくは制作過程の映像であった。

 ステンシルアート以外にも、どこかの街角で道化師姿でカンバスに風景画を描く映像や、さびれた鉄道の駅舎にある使われなくなった伝言板に即興でチョークを使って精密な汽車の絵を描き上げるさまを映していく。

 もちろん、いつもサイン代わりに小さな虹が添えられていた。


 アルカンシェルの生み出す絵、アートは素人さえも惹きこむ魅力があった。

 世界中の画壇はこの謎の絵描きが誰であるのか、必死に追いかける。

 ストリート・アーティストの正体は、ネット世界でも噂が絶えない。

 

 イギリスの名もない画商がアルカンシェル自筆の絵を、オークションに出品した。

 贋作かとも疑われたが、オークション出品と同時に道化師の画家はその絵画をカンバスに描く映像をSNSにアップしていたのだ。

 すかさず買い手がつき、わずか5号の絵に二万ポンド、当時の円換算で約三百万円の値がついた。

 

 アルカンシェルとは、いったい何者であるのか。

 絵画は無論のこと、小さな街の片隅に描かれた虹のサインが入ったステンシルアートも、血眼で探されることになる。


 ~~♡♡~~


 日本の片隅にひっそりと建てられた小さな病院。

 ここには医療費も満足に払えず、ただ余命を待つだけの患者が入院している。

 最低限の延命治療は施されていた。

 大部屋にはそんな患者が何人もベッドに寝かされている。

 

 ひとりの患者。

 難病を患っており、いつ天に召されても悲しむものは誰もいない。

 

 病室のドアが、ゆっくりと開く。

 サングラスをかけたスーツ姿の男が看護師とともに、病室をのぞく。

 男は看護師の後ろに立っていた女性にうやうやしく頭を下げ、室内の窓際のベッドを指さした。

 女性が入ってきた。

 背中には大きなリュックサックを背負っている。

 

 三十代前半だろうか。 

 ボブの髪は明るいカラーに染められ、ざっくりとしたストライプのシャツにパンツスタイルであるが、大きな目元が女性の美しさを醸し出している。

 目尻には小さなホクロ。

 ベッドに横たわる中年の男性を見ると、大粒の涙を浮かべながら駆け寄った。


「やっと、やっと見つけました!」


 その声に、げっそりとやつれた男性はうっすらと目を開いた。


「おや?

 きみは?

 きみは、もしかすると」


「はい!

 今から二十五年前、わたしは先生から絵を教えていただいた、あなたの弟子ですっ」


「ああっ、思い出したよ。

 すっかり大きく美しくなって、驚いたなあ。

 元気そうでよかった。

 ぼくはご覧の通りさ。

 旅をしながら絵を描いていたんだけど、さっぱり売れなくてね」


「わたしは謝らなければなりません。

 先生にお会いしたいばかりに、勝手に虹のサインを使ってしまって。

 どこかで見てくれていないかと、ネットを使って世界中に発信したんです」


「なぜ謝るの?

 だってこんなぼくの、唯一の弟子が今や世界的アーティト、アルカンシェルだなんて、誰が想像する?

 きみの描いた作品をネットで見てね、まさかあの時の小さなお弟子さんかな? と少し期待していたんだ。

 だって、あの虹のサインは、きみにあげた一枚にしか書いていないんだ。

 そのサインを使ってくれたなんて、むしろ誇りだよ」


 女性はベッド横にひざまずく。


「見ていてくださったのですね、先生」


「もちろんだ。

 ぼくが言った通り、きみは、いや、貴女は天から与えられた素晴らしき才能を開花させたんだね。

 それと、よしておくれ、先生だなんて。

 貴女のほうが世界に名を轟かす、立派な画家せんせいだよ」


「いいえ。

 今のわたしがあるのは、先生の教えがあったからです。

 絵画の素晴らしさ、美しさを教えていただいて。

 わたしの家はあの頃、恥ずかしいほど貧乏でした。

 でも先生に出会えて、手ほどきを受け進む道を決めました。

 けして楽な道のりではありませんでした。

 先生は、絵はわたしの味方だっておっしゃてくださいました。

 そのお言葉をいつも噛みしめて、描き続けたのですよ。

 いま、わたしの描く絵を心から鑑賞してくださるかたが世界中にいます。

 わたしは先生に褒めてほしかった。

 頑張ってるね、と。

 だから、ひとを雇って世界中、先生をお捜ししました。

 先生、今度はわたしがご恩返しをする番です」


 覆面画家アルカンシェルはリュックサックから、額に入れた古びた桜の風景画を愛おしそうに取り出した。


「この卒業証書は、わたしの大事な大事な宝物。

 先生のご病気はわたしが絶対に治します。

 新しい病院の個室に、この卒業証書を飾らせてください」


 大粒の涙を頬に伝わせ話す美しき画家に、中年となった男性は「ありがとう」と涙の止まらぬ目をつむった。

                                   完

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アルカンシェル 高尾つばき @tulip416

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