第23話 ノック・オン・ウッド

 

 ゲートハウスから、小走りで十五分の距離。


 先ほどよりいっそう濃い霧のせいで、外はどこも灰色で見えづらい。点在しているランプがあるにしても、水滴に乱反射して視界をひらいてはくれなかった。


 詩津は全力疾走したいところを抑えて、内郭の城壁に沿って歩いた。


「全然見えない……七生さんたちについて行けばよかった……」


 どこか別の世界に迷いこんでしまいそうな、そんな気持ちで庭を目指すうち、霧のなかで光を感じた。


 まるで穴倉に閉じ込められた者が、光が漏れる方向から脱出を試みるかのように、詩津は遠くの光に導かれるようにして進む。


 視界はみるみる明るくなり、飛び込むようにして足を踏み入れた魔法の庭は、相変わらず真昼のように輝かしい。


 花たちが放つ、芳醇で甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら詩津は茨が絡みついたガーデンアーチをくぐり、周囲を見回す。


 だが七生たちの姿はすぐに見つからず、仕掛け噴水ウォーター・サプライズを通り過ぎ、七生とお茶をした四阿の前にまで来ると、怒声が聞こえた。


 背の高い花壇を通り抜け、叫び声が聞こえた場所まで辿りついた詩津だが————庭の奥深くでは、想像とは違うやりとりが始まっていた。


「————まさか、そんな……」


 詩津は両手で口元を覆う。巨大クモを見つけた時、声が震えた。


 肝心の社長は——たくさんの小さな白い花弁に包まれて、化物の腹に身をうずめていた。まともな状態ではなかった。干からびた老人の陥没した目や口は花に侵され、無残にこと切れている。


「……どうなっているんですか?」


 クモを忌々しげに見あげる七生を見つけ、詩津は駆け寄る。


「お前、やっと来たのか」


「社長さんがなんで……あんなことに……」


「あいつは聖樹の庭では禁忌の花——セイヨウニワトコに手を出して、自身が喰われたんだ。あいつは三斗以上の馬鹿だ。自分の力以上の花を操ろうとするなんて」


「セイヨウニワトコ?」


「悪魔を呼ぶ花とも言われている。おおかた、クモをあの花で支配しようとして失敗したんだろうな」


「あ、あのクモは本当に悪魔の使いなんですか?」


「楽園破壊者は悪魔のような力を持ってはいても、悪魔ではない。メタファーだ」


「それで三斗君はどこにいるんですか……?」


「わからん。俺と五樹が駆けつけた時にはもう、この状態だった」


「三斗君……」


 詩津の胸が不安に襲われ——足の力が抜けて、その場に座りこんでしまう。よかれとしてやったことから、ここまで恐ろしい事件に発展するなど、思ってもみなかった。


 好奇心は本当に仇となったのだ。


「……三斗君っ……」


 クモに食われたのかもしれない——考えたくなくても、詩津の思考は自然と悪夢に染まった。


「お前は邪魔だ。何もできないのなら、あっちに行ってろ」


 力なく項垂れる詩都に七生の冷たい視線が突き刺さる。ショックで茫然としながらも、詩津はふらふらと離れた場所に移動した。


「我、ガブリエルの加護のもとに支配せぬ、祖を説き伏すは——brassia oleracea!」


 七生がクモに手をかざして言うと、クモの周りに緑の花弁が出現する。大輪の花にも見えるキャベツがクモを囲む。


 キャベツはクモを幾重にも包み込むも、糸杉の時のようにはいかなかった。クモはキャベツをすぐに食い破る。


 クモは七生を敵とみなし、巨大な足をふりおろす。


「——我、ハニエルの加護のもとに支配せぬ、数多の壁は護りのlinum!」


 七生と並び出た五樹が、指を鳴らす。無数の細い茎がクモの足下を突き破り、急激に成長した。伸びきった茎の頭には青い小花が咲いている。亜麻の花だ。


 亜麻の茎は、クモの前で檻を作った。クモは苛立つように何度も亜麻の檻を足でひっかくように叩く。


 最初は鉄壁の守りに見えた亜麻の檻。だが執拗に叩かれ続け、ついには破られる。


 五樹が作り出した檻は端から崩れていった。


「駄目だ、離れて兄さん——!」


 五樹の指摘よりも早く、七生は檻から飛び退く。一歩遅れて、檻をやぶった足が、七生が過ぎた場所を突き刺した。


「我、庭の——」


「七生さん!」


 七生は反撃しようと唱えるが、クモがそれをさせない。間髪いれずに狙われては、七生もかわすだけで精いっぱいだった。


「我、ハニエルの加護のもとに支配せぬ、祖を覆すは——」


 クモが七生にひきつけられている間に、今度は五樹が口早に唱える。


 だが耳聡いクモは顔をくるりと五樹に向け、口から白塊を吐きつけた。


 クモの糸だろうか。粘着質でできたバスケットボール大の塊は、風船を割ったガムのように五樹の体をオークの木に縫いとめる。


 五樹はオークの木に後頭部を打ち付けた拍子に気を失い、体から力を抜いた。


 さらにクモは、無防備になった五樹を狙う。八本の足を波打たせながら勢いよく五樹に迫る。


「五樹!」


「い、五樹さん!」


 かろうじて残っている亜麻の檻から見ていた詩都は、思わず飛び出した。


 五樹に駆け寄ると、必死になって彼の両頬を叩く。


「お、起きてください! 五樹さん!」


 五樹は微かに呻く。


 いつの間にか接近していたクモが五樹をのぞきこむ。


 大きく振り下ろされた足。


 オークの木が裂けて、詩津と五樹は吹っ飛ばされる。


 なおも気絶して動かない五樹の頭を、咄嗟に詩津は抱え込んだ。


 再びクモはやってくる。


 クモの腹にある老人の屍が嫌でも目に入る。


「……や……やだ……」


 詩津は五樹をひきずりながら後ずさる。


 にじり寄るクモ。


 ————その時。


「詩津! 『ノック・オン・ウッド』だ!」


「え? ノック?」


 クモの巨体に遮られ姿は見えないもの、七生の声だけが届いた。


「『ノック・オン・ウッド』と言って、オークを叩け!」


「は、はいッ」


 『ノック・オン・ウッド』は七生からチラと聞いた西洋のおまじないだ。不吉を払うと聞いたが、思い出したわけではなかった。


 詩津はただ言われた通り、足下に転がるオークの破片を手に持っては、とりあえず叩きながら、唱えた。


 ————ノック・オン・ウッド。


 同時に、詩津の頭上でクモが影を作る。


「ひぃいいいいッ」


 詩津は思わず木片を落とし、頭を手で覆ってその場にしゃがみこんだ。


 目を閉じて恐怖に身を竦めるが——。


 いつまでも不幸は降りかからず、詩津はこわごわと片目を開いた。


「————あ」


 腰を抜かした詩津の頭上で、オークの葉が風でサラサラと音を立てた。


 鎖のように繋がった葉は、クモを縛り、動きを封じていた。


「兄さん!」


 いつの間に意識を取り戻したのだろう。好機を逃すなとばかりに、五樹が声をあげた。


 返答の代わりに、七生のまじないが聞こえた。


「我、ガブリエルの加護の元に破壊を乞う——軍徒、akanthous!」


 七生が唱えると、クモの足下から長い葉が開き、細かい花をつけた長い茎がクモの腹を突き破る。幾つもの葉薊アカンサスが槍となって貫き、クモは苦しみ悶えた。


 間を置かず、五樹が続く。


「我、ハニエルの加護の元、無に帰さん——primus veris!」


 クモの周囲で楕円形の葉が見事に茂る。葉の隙間から無数に伸びた茎は、まるでスイカの模様のようにクモを束縛した。五樹が呼び出したカウスリップはクモの頭上に黄色い花をいっせいに咲かせ————。


 怪物は泡となって弾けた。


 泡は詩津たちの頭上に降り注がれる。禍々しい姿とはうって代わり、幻想的な虹色の粒子が地面に落ちる。


「我、ハニエルの加護の元に葬送する——聖なる落とし火」


 さらに続けて、五樹が唱える。五樹が見おろす先には、怪奇事件にしか見えない死体がある。


 痩せ細った枯木のような顔は、叫びをあげたまま時を止めている。五樹が指を鳴らすと、屍から伸びるタイムの花が、いっせいに火を噴いた。


「くそう……こんな男のせいで三斗が……」


 悔しそうに唇を噛む五樹。


「三斗君は……本当に……?」


 諦めきれない詩津は七生の顔を見あげる。


 七生の顔色も曇っている。しかし悲しみとはまた違った感情が滲んでいる。


「——まずい、クモの血が」


 悲しみや恐怖の余韻が冷めやらぬうちに、七生が焦りをこぼした。


「どうしたんですか?」


 詩津が訊ねると、七生は破壊されたオークの木を指さす。その手は微かに震えていた。


 半壊のオークには黒い斑点がついていた。ただの模様ではないそれは、次第に広がり、オークを塗りつぶす。さらに周囲の花までもが炭と化した。まるで昼から夜に変化するごとく暗闇が庭を食い尽くす。


「汚染された」


「汚染? どういうことですか?」


 廃墟のように黒ずんでゆく庭に、詩津は言い知れぬ恐怖を抱く。


 五樹も悲しみとも焦りともつかない声で言った。


楽園破壊者ガーデン・デストロイヤどくを庭が吸収してしまったらしい。あれの血は庭を破壊する。少量なら問題ないが……クモがデカすぎたんだ——くそう、燃やしても間に合わない!」


「無駄だ、五樹——もう、諦めるんだ」


「庭が! 俺たちの庭が!」


 叫ぶ五樹に七生は暗い顔でかぶりを振る。


「……ちくしょう……どうして……」


 五樹は塗り替わってゆく地面を拳で叩きつける。


 なだめるように、七生が五樹の肩を叩いた。


「三斗を探そう。まだ、クモにやられたと決まったわけじゃない」


「あ、あたしも手伝いますっ!」


 三斗のことを聞いて、詩津は闇に染まった庭を駆けだした。

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花檻の魔術師 #zen @zendesuyo

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