人間の耳に聞こえぬ夜と昼の呼びかはす声 頬切られゐし

・人間の耳に聞こえぬ夜と昼の呼びかはす声 頬切られゐし

「人間の耳に聞こえぬ夜と昼の呼びかはす声」ときて一字空白、そして「頬切られゐし」と続く。
ちなみに韻律的に「夜(よ)と昼の」と読むところだと思われる。

いきなり「頬切られゐし」とくるから驚いてしまうが、こうした構造の歌には必ず「空白の前と後ろ」に「(詩的跳躍を挟んだ)繋がり」がある。

意味としては「人間の耳には聞こえない、夜と昼が互いに呼び合う声。それを私は聞くことができる。その声に頬を切られた」としておけば大体の意味が繋がるのではないか。
「人間の耳に聞こえぬ」「声」がこの歌の主人公にも「聞こえぬ」とは限らない。歌の主役が人間である保証などどこにもないのである。

夜が来れば昼は地球の裏側に行く。昼が来れば夜の方が地球の裏側に行く。
したがって「呼びかはす声」に「頬切られゐし」とはまさに「地球の裏側と通信するだけのパワーがある、ものすごい勢いの声」だからこその表現だ。
「声」に「頬切られゐし」とは相当である。とんでもない風が鋭く吹いてきて頬を傷めるようなイメージだろうか。

・わが明るき右半身をそよがせて川べりをゆく秋を迎えに

難解さは無く、なんでもないような歌だが妙に惹かれる。
「明るき右半身」が良い。
私が右利きでなおかつ運動下手だからだと思うが、
「右半身」の理性的で確かな感覚、そして「左半身」のおそろしく不器用で曖昧な感覚が一つの「身」の中で全く違う世界を領している。
「明るき右半身」とは安心出来る、理性的で落ち着いた感じがするのである。

この歌は左利きの人が読むと印象が違うかもしれない。

「川べりをゆく秋を迎えに」、とても爽やかだ。この歌の世界は一貫している。
「夏を迎えに」では「右半身」の理性的な要素と調和しないとすら思う。
それは私が夏嫌いだからだろうか……。

・謎ひとつ思ひいづるにたましひの震ふ音ふかく野に響きゆく

これは良い歌だ。素晴らしい。
「謎ひとつ思ひいづるにたましひの震ふ音("おと"よりは"ね"だろう)ふかく野に響きゆく」。実に美しい。

謎をひとつ思い付く(「思ひいづる」だから「思い出す」と解釈することも可能だろうか)。
その度に我が魂が震える音、それが野に深く深く響いてゆく。

謎を思い付く(または思い出す)ことの喜びをこんな風に歌っている。
「たましひの震ふ音」、なるほどそんな音も確かにあるに違いない。納得してしまう。
確かに「たましひの震ふ音」はある。「たましひの震ふ」、「音」。相性の良い言葉たちだ。

科学的に考えて「音」は「振動」であり「魂が震える」というのは普通によくある表現だから「たましひの震ふ音」というのは非常に説得力がある。
それでいて凡庸な歌になっていない。

・火の首をいま抱き来ぬ汝(なれ)もまた画家のビュランゆ生(あ)れしものかは

これはよくわからない。元ネタの「画家のビュラン」を知らない。
ネット検索をしたらウジェーヌ・ビュランなる画家が出てきたが、ウジェーヌ・ビュランの絵に「火の首」的な作品があるのだろうか。

一応文意を読むと
「火の首を今いだいて来たあなたもまた、画家であるビュランから生まれてきた(ビュランに創られた)者なのだろうか?
("かは"だから"か"よりは反語に近い。
すなわち〈画家であるビュランから生まれてきた者なのだろうか? いやいや決してそうではあるまい〉の意味か)」
ということになる。

「今抱き来ぬ」は「いまだききぬ」では六音だから「いまいだききぬ」とする、つまり「汝(なれ)」の首が「火の首」になっているのだろう。
「汝」が「火の首」をかかえこんで持ってきたという解釈は難しい。

元ネタが分からないから「火の首」にどこまでの意味があるのかよくわからない。
案外「酔っぱらいの火を噴くような赤い頬」の「頬」を「首」に変えただけ、というような解釈も一応可能だろうか。

・ひと房の葡萄をひだりむねに置き見よう見まねの一生(ひとよ)なりしか

これも元ネタがわからない。
「ひと房の葡萄をひだりむねに置」く構図の絵画があるのだろうか。
ただ意味はよくわかる。

「見よう見まねの一生だったのか("し"だから一応回想らしくしておく)」というのは万人が抱く感覚かもしれない。
皆何かしらを真似している。オリジナルなんてなかなか居ないものだ。

非常に気に入った歌を三首挙げたあと、わからなかった歌をバカ正直に二首挙げておいた。
二首の元ネタがわかった方がいたらレビューを書いて教えて欲しい。