サイダーの炭酸が抜けてゆくように夏の余命を費やす午睡

色んな歌が並んでいる。
キャッチコピーに選ばれた
・「人生の模試でD判定だから三者面談してくれますか」
が良いという人もいれば、全く逆にこれこそがこの作品中で最もダメだという人もいるだろう。

人生を受験に準えた上で、「どうもダメっぽい」ということを「模試でD判定」と表現する。

「三者面談」とあるが、「先生役」は誰にあたるのか。
神などではなくて案外「国」かもしれない。
たとえば「いっそのこと障害者年金を貰えれば生活が楽になるけれど、
自分の障害で国に申請を出しても突っぱねらてしまった」というような状況。
国の福祉から微妙に取り残された弱者が「三者面談してくれますか」と言って「どうか自分を見捨てないでくれ(どうせ自分を見捨てるのだろうが)」と訴えている。

そうしたリアルな構図を引き出せば結構面白いがやや強引かもしれない。

・「八月は地獄の季節汗ばんだうなじに修羅の残り香を嗅ぐ」
は八月という非常に暑い季節をランボーの『地獄の季節』をベースとして表現する。
「地獄」から「修羅」が連想的に導かれる。

まともに読めば本当にそれだけの歌なのだが、「汗ばんだうなじ」あたりに着目すると面白いかもしれない。

「うなじ」は首の後ろの方だから本人にはその「修羅の残り香を嗅ぐ」のは難しいのではないか。
そうすると歌の中には二人の人物がいて、一方がもう一方の「うなじ」の臭いを嗅いでいるという図が描ける。
そうすると二人の緊張した関係性もまた「八月」の暑さのように「地獄の季節」的なものなのかもしれない。

ここに集められた短歌の中で最も良くできていると思うのが
・「サイダーの炭酸が抜けてゆくように夏の余命を費やす午睡」
である。
なんというか歌の文体がスラッとしていて綺麗に収まっている。様になっている。
「夏の余命を費やす午睡」という発想は中々のものだ。
余談だが歳時記を見ると大抵「春逝く(逝く春)」とか「夏逝く(逝く夏)」とか書かれていて
「俳句では季節を生き物に例えるのがそんなに流行るのか」と思ったものである。

「サイダーの炭酸が抜けてゆくように」とはやや不器用な感じがする。
「炭酸が抜けて」の字余りと
「サイダー」に「炭酸」が続くという平凡さがやや勿体ない。
大事なのは「炭酸」なのだからいっそ「サイダー」を消すか、
もっとクセが強い「ファンタ」みたいな炭酸の飲み物を持ってくると面白かったのではないか。

一見不器用な上の句だが、しかし「炭酸が抜けてゆくよう」という表現をしたのは良い。
「夏」を出来事で一杯にし、楽しく過ごそうという一種の緊張が最初はあったものの、
「炭酸が抜けてゆくように」最後はダラけてしまう。
あとはとにかく「夏の余命」という残り時間を削る「午睡」をして過ごすだけだというのである。
実に筋が通っている。