やまひだれの漢字を言つてゆく遊び最後にわたしが痛み、といふ

・やまひだれの漢字を言つてゆく遊び最後にわたしが痛み、といふ

「やまひだれの漢字を言つてゆく遊び」とは変わっている。〈やまいだれの字を順に言って思いつかなくなった人の負け〉といったルールだろうか。
まず、「やまひだれの漢字」と言われて思いつくのはもちろん病(やまい)だろう。そのまんまなのだからこれが一番安易だ。
おそらくその次くらいに「痛」の字があるのではないか。しかしこの文字を歌の主人公は「最後」まで温存する。もちろん相手もまた「最後」まで「痛」の字を挙げていないのである。
そこが面白い。一番安易な「病」は既に出ているのかもしれない。そしてヒネった文字がいくつも続き、「最後」に「痛み」である。
「痛み」の意味は重いが、単に〈「やまひだれの漢字」を挙げていく際に絶妙に忘れやすい文字〉として読んでも絶妙に説得力があるセレクトではないか。

癩病の癩だとか、癌だとか、あるいは湿疹の疹なんかも「やまひだれ」だ。「やまひだれの漢字を言つてゆく遊び」はそれだけで病名の百科事典の様相を呈するだろう。
「癌」なんて一字で病名として成立している。おそらく「やまひだれの漢字を言つてゆく遊び」をしている主人公の脳内ではたくさんの病気と病名が飛び交っているに違いない。
病名や病気を思い浮かべる遊びは熱中してくると様々な死のシミュレーションのような感じがするかもしれない。
そこで「痛み」という語が生々しく響いてくる。死が咲き乱れる脳内に、ポンと一語「痛み」が現れる。極めて鮮烈な「痛み」が、単語を通してイメージされる。

「やまひだれ」と言えばやはり病気で、病気に付き物なのが「痛み」である。しかしその「痛み」という概念は実に捉えがたい。病名の百科事典を作る方が「痛み」の百科事典を作るよりはるかにたやすいのではないか。
「痛み」は思考をすり抜ける。数年前または数十年前に自分が感じた「痛み」をどれだけリアルに想起できるか、実にあやしい。基本的には他者の「痛み」などリアルに感じられなくて当然だ。
「痛み」はすぐに意識の外へ行ってしまう。それだけに「最後」に口に出された「痛み」は聞く者に衝撃を与えただろう。