全裸中年男性というタームがいつのまにやらネット上のあらゆる場所で使われ始め、
取り残されたような気持ちになった。
全裸中年男性はもう一年か二年ほどの歴史を持つ概念だが、未だに私はその正体を知らない。
全裸中年男性の知識を取りこぼしたまま放置したツケとして今「全裸」「中年」「男性」の小説を苦心しながら読んでいる。
どうもこの小説における全裸中年男性は大変なサウナ好きらしい。そういうキャラクターだったのかなぁと思う。
しかも似たような顔をしていて揃って禿げているらしい。まあそんなものかと思う。
一年か二年程前にサウナが流行った。
アレには一種の狂気染みたところがあったと今でも思う。
「ととのう」なる不可解な語の正体は謎だが、「サウナへ行って脳や体をイジメると気持ちいい」という麻薬的な雰囲気が篭っている。
「サウナ救世譚」もまたそうしたアブない時代の流れから生まれた作品である。
「全裸」「中年」「男性」概念をそのままに出力してしまえばおぞましい怪物の群れだ。
しかし「全裸中年男性ごっこに興じる全裸の若者」が実の所ネット上には相当数いる。
「ああ、アイツも全裸中年男性になっちまった!」あるいは「アイツもサウナで"ととのっちまった"!」という気持ちでSNSを閲覧したことがある。
全裸中年男性をあくまで身近なものとして捉えつつ読む時、「サウナ救世譚」もまた一段と面白味を増してくるのではないか。
意図された反リーダビリティな文体と衒学的な情報の洪水が、しかし小規模な小噺として綺麗にオチるのはよくよく熟れている。荒唐無稽をつぶさに解体するような言及が多く、個人の強味として独自性があるのは認めるところだ。良い。
僕は筆者の文体が誤解を恐れずに述べれば苦手なのだが、しかし、個人の苦手と作品の不得手は等しくない。サウナを軸とするワンアイディアでここまで物事を拡張しながら、さらりと物語を締め括る手際は確かなもので、かような作品を僕には書けないからこそ優れているようにも思える。
一つ一つの文章自体は淡白なのも有効に作用している。何を端的にし何を複雑化させるか。その見誤りなく適切に物事を微妙に進行させるのは、語りの速度がしかと管理できているからに他ならず、それは同時に自分の作風もまた抜かりなく管理下に置けているとも言えるだろう。