密室と盲目――終

 彼女がお隣さんの部屋に入ると、刑事たちは一堂に介し、一見どころか場違いな格好をしたその女性と被疑者のぼくに視線が集まった。この現場は、殺人が起きたにしては奇っ怪な光景といえるだろう。既に敷地にはトラテープが貼られており、現場保存の係員達が車内で機材の確認を行っているところで、時間的にいえばギリギリもギリギリ、いや、正しくはちょっとはみ出し気味である。

「お嬢さん、諦める準備がつきました?」

 ガタイのいっとういい刑事が彼女に声をかける。被害者の体を触りもしていないのだ。確かにそう思われても仕方がないだろう。ぼくだって彼女がこの密室を解体できたとは思えない。

「いや、あなた……! 今声を出したあなた……! 体がおっきな男の人の声がしました! お願いがあるんですけど」

「は、はい……?」

 探偵が思ったよりも大きな声を出したので、ガタイの大きな刑事は少し怯んで彼女に近付き、彼女はまたさっきのように耳元で何かを言うと、彼は少し驚いたような表情で部屋の外に出ていった。

 全員が神妙な顔をして、彼女の言葉を待っていた。

「みなさん、調査お疲れ様です。でも、実はこの事件、もう犯人は既にこちらにいらっしゃいます」

 彼女は両手の平を全員に見せるようにして宣言した。 

「つまり、宗像伊三、ということですか?」

「いえ。この建物の中にいる人間、ということです」

「ほう。ではあなたは宗像伊三以外の人間、我々警察の面々を疑う、ということですね?」

「いえ、そんなそんな。それこそ荒唐無稽です。私が言いたいのは、密室事件は大きく三つに分けられるということです。そしてそれ以外は、成立し得ないはずなんです」

 クイ、とコートを着た刑事が鼻を持ち上げる。彼は発言者たる彼女に発言の真意を問うように質問を投げた。

「ほう、面白いことを言うね。説明をお願いする」

「一、なんらかの要因によって殺人に見える状況に陥る場合。

二、仕掛けによって後から密室になる場合。

三、そもそも密室ではない。秘密の抜け道がある場合。

 今回、私は状況を聞いた時、第一印象で仕掛け密室の線を追いました。お隣さんの鍵がポストに入ってて、部屋に入ったら死体、なんて仕掛け密室の定番ですからね、ドアノブなんかに仕込んだり、或いは天井になにか仕込めば似たようなことができないかな、と思いました。けど、これをするには決定的に足りないものが多すぎました。そして、今さっきこの部屋に入った時確信しました。この部屋では仕掛け密室は難しいです」

 くたびれたコートの刑事が興味深そうに髭を撫でつけた。

「理由、あるかい」

「この密室は『破られないといけない』という点です。そもそも凶器は宗像さんのナイフですし、仕掛け密室が最悪今朝発見されなかった場合、仕掛けだけが残り続けてしまうことになります。これは正直犯人としては想定したくないでしょう。自分の犯行の証拠を残してしまったり、もし時間経過で仕掛けが壊れてしまったら、決定的な証拠をみすみす渡すことになってしまいますから。ですので、仕掛け密室は否定されます」

 まあ、そうだな、と刑事は納得したように頷く。

「では、『一、なんらかの要因によって殺人に見える状況に陥る場合』これはどうやって否定する?」

「ありえません」

 威勢よく、一刀両断、であった。

「今回の一件でこの選択肢を選んで得する人間が居ないからです。ナイフが宗像さんのものである以上、これは『殺人が行われた』という明示です。もしこれをしたいなら、犯人がわざわざ宗像さんのナイフを持っていく必要がありません。この部屋にあるナイフを持ち込めばいい。わざわざ宗像さんのナイフを使った意味がなくなってしまいます」

 なるほど、相槌が行われ、三つのうちで最後に残ったものの説明を後は待つだけになった。

「では、君は答えが『三、そもそも密室ではない。秘密の抜け道がある場合』だって言うのかな?」

 彼女は大きく頷いた。

「そうです。この密室には穴があります。はっきり言って、犯人は一つ大きなミスをしています。かからないはずの鍵をかけてしまっていますから」

 刑事たちは顔を見合わせる。

「なにをいってるんだ? この女」

「湯川、聞いてな」

 コートの刑事は楽しそうに刑事の一人を手で静止し、どうぞ、と主導権を探偵に返した。

 その言葉の後、彼女はぼくの手をぎゅっと握って微笑んだ。それはなんとも頼もしく優しい、強い笑顔だった。

「もう一度、確認しますね。私が確かめたのは、宗像さんのお部屋の鍵ですから。こちらはまだです。この部屋の鍵は、居抜きの間を仕切る為の錠、これは両方から開閉できますね?」

「可能だ。確かめた」

「では、窓はクレセント錠。一般的な内側からしか開けたり締めたりできないものですね」

「そうだ。できない」

「では、玄関は、ただのシリンダー錠ですね?」

「ああ。間違いない。合鍵もない。作ってもいないことも確認した。一本だけだ」

「ではお風呂場の鍵はどうでしょうか」

 一人以外全員が不思議そうな表情を浮かべた。というよりも、『今更何を言っているんだ?』という顔である。

「あの錠だけ内鍵ですよね」

「そうだが、それはどうした?」

「あなた方が来た時、閉まってたんですよね」

「ああ、だからどうしたんだ? コインを差し入れてネジを直接回して開けたが、中には誰もいなかったぞ」

「でしょうね。ですが、何かおかしいって、思いませんか?」

「お嬢ちゃん、こう言いたいわけだな。俺らが調べて誰も居なかった、一畳あるかないかのあんなちっちゃい風呂場の中に、『隠れたやつがいる』って」

 彼女を詰めるように全員の熱量が上がっていく。けれど彼女はそんなものお構いなしのどこ吹く風。涼しい顔で言葉を続ける。

「肝心なことは見えないんです。どこに隠れているんでしょうね、犯人は」

「ひっ、気味悪いこと言うなよ」

 何か末恐ろしい気味の悪さを感じたのか、湯川と呼ばれた刑事が身を凍らせるように背中を丸めた。

「『どうしてか』犯人は『内鍵』の風呂場まで外からコインをわざわざ使って、鍵をかけたんです。なんででしょうね。唯一ここだけ、整合性が取れないんです。他の密室トリックは完璧なのに。だから、確かめにいきましょうか。連れてってください、宗像さん。みなさんもご一緒に。わたくし、何も見えていませんので」

 狭い風呂場の入り口に、全員がやってきた。全員が妙に緊張しているのがわかった。

「では、お願いします」

 ぼくは先導して風呂場を開ける。どこにもなにもない。白い壁面が広がるだけだ。

 狭い二畳ほどの空間に小さな湯船と、薄ぼけたライトがあった。

「誰も、いませんよ」

「でしょうね、『ここには』」

 全員が息を飲む音がした瞬間、彼女はそれまでの淑やかな態度が全部ウソのように、


「出て来いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああオラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」


 はち切れんばかりにと叫んだ。

 大柄な警察官や刑事もみなして後ろに向かって吹っ飛ぶように転がり、

 なおも彼女はそこに立ちい出て、

 持っていた白杖を握り込み、天井を思い切り、

 刺突した。



 どずん、それは杖が天井を突く重い音であった。そして、浴室の天井の一部がずれた。

 全員が口を開けて困惑する中、何かを引きずるような音が天井裏を這い回り、腐った果実を引きずり倒したような気味の悪い音を立ててそれが向こう側――ぼくの部屋側――に移動したのを聞いた。

「宗像さんの家のお風呂場です。既にさっきお伝えした大柄な刑事さんにお待ちいただいてます」

 いとも簡単そうに、彼女はそう言った。

「犯人も見つかったので、少し補足しますね。犯人はこの家の風呂場の天井から宗像さんの家の風呂場の天井へ伝って移動し、手袋か何かをしてナイフを持ってお隣さんを殺害した後、お隣さんの家の鍵をポストに入れたんです。そしてその後に宗像さんのお家のお風呂に戻って、天井裏に潜伏した。そして宗像さんが逮捕されるのを待って、自分はその後で出ていく――。それが犯人の描いた『逃走経路』ですが、密室は不完全でした」

「おい! 捉えにいけ!」

 コートの刑事がそう叫んだ時には、警察官たちは既に走り出していた。

 そして、ややあってぼくの部屋からはけたたましい音が鳴り響いた。

「……ありがとうございました。おかげで、助かりました」

 ぼくは足から力が抜けて、床にへたりこんでいた。

「いえ、お仕事ですから。私はこれで失礼しますね。お見苦しいところを見せました」

 彼女は踵を返し、玄関から何食わぬ顔でただただ瀟洒に歩み出ていく。

「あ、あの。最後にお名前、教えてもらえませんか?」

「ああ、私ですか? 槇島無為っていいます。あ、名刺。お渡ししておきますね。槇島探偵事務所、今後もご贔屓にお願いします。お支払いの明細は、後日郵送するそうです」

 彼女の名刺からは、ラズベリーの香りが仄かにした。ぼくはそれに惹起されたのか、彼女の体温を思い出していた。

 彼女は敷地から歩み出し、気がつけば見えなくなってしまっていた。

 なんとなく名残惜しく感じたのは、彼女がとても美人だったからだ、と思う。

 そしてお隣さんの遺体を横目に玄関から出ると、一人の見覚えのある男が手錠にかけられて、身柄を確保されていた。それは何度か見た、お隣さん“田中しずえ”の彼氏だった。

 初老の刑事は汗を拭きながら出て来ると、バツの悪そうな顔をしてこちらを見た。そしてぼくの半分掛けられた輪っかを解いて、自分の腰に戻した。

「容疑者を確保した。捜査にご協力いただいて、ありがとう。ちなみに宗像くん、この後、お話だけ聞くために一応署まで来てもらってもいい?」

「……はい」

 その後、迷惑料とのことで警察に伝えられたことについて、ぼくは話しておくべきだと思う。

 古いアパートではバスルームの天井裏の点検口がそのまま屋根裏に繋がっていることがあるらしい。ぼくの住んでいる深川荘は、築百年を超えるボロアパートもいいとこの物件だったので、その辺の処理が甘かったのだろう。天井裏が繋がってしまっていたのだ。だから彼はその屋根裏部屋を駆使し、一見するとわからない『密室殺人』を計画するに至ったらしい。……しばらくは風呂に入るのが怖くて銭湯を利用していたが、財布の中身が目減りしていくものだから『まあ、いいか』という気分になってしまって、今は普通に家の風呂に入っている。人間の慣れというのは、恐ろしいものだ。

 けれども最も恐ろしかったのは、『犯人』の次の標的が『ぼく』だったことだ。

 どうやら犯人は、彼女がぼくと浮気していると勘違いしていたらしい。どれだけ犯行が完璧でも、ぼくを殺してしまったら足がつくと思うのだが――彼にとっては、そんなこと些事だったのだろう。

 もしもう一度あの部屋で眠っていたら――次の朝はなかった。思い出すだけで背筋が凍る。

 全く以て逆恨みお門違いもいいとこなのだが、こういうことが往々にしてあるのが世の常だ。運がないぼくは、あの刑事が言う通り、今日も運がなかったという訳だった。ははは。乾いた笑いしか出ない。

 翻って、本日の空は夕立ざーざー降りである。

 ぼくは、近日中にこのアパートを退去する。

 慣れたとは言っても不穏すぎてここに残る気は起きなかったし、大家さんも何も言わなかった。かくして深川荘の住人はいなくなり、引っ越しは終わった。

 そして、引越代と合わせて探偵代の負債が残った。

 貯金、ナシ。マイナスがそのまま、三百二十万円也。

『命にしては安いだろ?』とは槙島探偵事務所の社長の弁である。

 車一台と命なら流石に命かな……と思いはするのだが、無職のぼくにとっては命よりも重そうな金額だ。

 でも、なんと言ったか、あの子。

 槇島無為。

 あの子には、また会いたいな……願わくば、事件現場以外で。

 まあ、またすぐに事件現場で会ってしまうのは、今のぼくだから知っている話だ。

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盲目探偵――探偵は何も見えていない―― 安条序那 @jonathan_jona

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