密室と盲目――2

 呆気ないくらいに簡単に電話が切れて、その余韻を残す間に部屋には刑事たちが押し入ってきていた。

「そこで蹲って、なにしてたんだ?」

「ちょっと、人を呼んだだけです」

「弁護士なら早いぞ」

「ぼくはまだ逮捕されてません。呼んだのは――探偵です」

 場の全員が、阿呆でも見るように、こちらを見た。

 いや、改めよう。間違いない、ぼくは阿呆だ。

 現場の保存の為の班が来るまでの一時間の間、それがぼくのタイムリミットになった。片腕には、もう輪っかが半分ハマっている。

 アパートの階段には、初老の刑事が腰掛けて座っていた。こんなコンクリートも軟化するほどの酷暑だっていうのにくたびれたコートを着て、缶コーヒーを持っている。

「そうは言ってもさ、兄ちゃん、どの要素で信じてもらうよ。探偵さんだって万能じゃないんだぜ、下調べもしないとだしよ。まあ、あの仏さん、通報された時彼氏が来てたんだってな。その人の連絡はまだ取れてないし、ちょっとまあ、若いのはイキり立ってああいう風に強く言うけどさ、まあ、まあ。落ち着きなよ。これでも飲みな。まだあんたが犯人だって決まったわけじゃないしなあ」 

 コーヒー缶を渡されて開けると、香りだけでブラックだとわかった。味を想像すれば苦く、なんとなく前途を予兆しているような気がして眉間を顰めた。

 実際、こういう状況にあっては、来てもらった探偵さんですら僕のことを疑うだろう。アリバイなし、凶器の所持者、第一発見者、おまけに密室と来た。これはもう僕の人生も終わったかも知れないな、はっはっは。はあ。風船から気が抜けていくみたいに、体からは空気が漏れていく。

 深い溜息の後にどこまでも青い空を眺めると、なんとも虚しい人生で泣けてきた。勉強も運動も特筆すべきところなし。平々凡々。始めて新卒で入社した会社はてんで駄目で仕事にならず、人付き合いもうまく出来ず、気がつけば金もなく、至極当然にあぶれてしまった。あぶれてしまって、こんな安アパートに仕送を貰って一人。人生の苦しみが頭をもたげて上手く眠れず、かといって行く宛もなく、そうしてこれか……最後が、こんな綺麗な夏の空か。やりきれぬ。

「まあまあ、人生かっとなっちまう時もあるよな。やっちまったら仕方ない」

「やってませんって!」

 喉元から声が出て立ち上がった時、下階からか細い女性の叫声が聞こえた。ぼくの声に驚かせてしまったのかもしれない。すぐに階段を降り、声のほうに近付く。すると敷地のちょうど手前にその女性は立っており、白い杖と犬のぬいぐるみを転がしてしまったようで探していた。白い杖、ということはもうであろうか。できるだけわかりやすいように足音を響かせて近寄ると、杖とぬいぐるみを持ち上げて女性へ渡した。彼女は成人しているかしていないかくらいで、とても若く見えた。そして、瞼の上にぐるぐると包帯を巻いていて、髪は包帯の上から垂らして正面以外からは見えなくしていた。

 服はいわゆるクラシカルでガーリーな普段着に使えるドレス服で、控えめなヘッドドレスやエナメルの靴を身に纏った今風の雰囲気だ。しかし異様に感じるのは、彼女の佇まいがやけに落ち着き払った厳かさを醸しており、若さを湛えながらも決して浮足立って見えず、むしろ誰よりも静かで理知的に見える点である。一部の欠損した石像がやけに神聖に見えるように、彼女の周りの温度だけは、少し涼んでさえ感じた。

「大丈夫ですか」

 ぼくは圧倒されながらも彼女に杖とぬいぐるみを手渡して、わけもわからず一礼した。

「大丈夫です。ご丁寧に、ありがとう。お優しい人」

 その女性ははっきりと聞き取りやすい、鈴を鳴らしたような声をしていた。そして、ビスコースの黒い漣のようなドレープを感じるドレスのスカートのを器用に指先で繕ってみせると、申し訳無さそうにこちらと少しずれた場所に向かって話しかける。どうも、本当に見えていないらしい。

「ところで、もし。お聞きしてもよろしいでしょうか」

「なんでしょう、とはいっても、あんまりこの辺り、詳しいわけじゃないんですけど」

「この辺りにある深川荘はご存知ですか? この辺りはブロックがなくて、どこがお家の入り口かもわからなくて……」

「あ、それならここですよ。それにしても、どうして?」

「実は、お仕事でその深川荘さんのお方に呼ばれてるんです」

「それって、ひょっとして、『宗像伊三』……?」

「あら。ではひょっとして」

 その女性は嫋やかに微笑んだ。愛らしい、黒いネモフィラが咲いたような、こんな状況でもなければ、惚れてしまいそうな程に魅力的な笑顔だった。目元が見えないからだろうか、想像力が勝手に補完するからだろうか。彼女の透き通った肌と不思議な余裕が、余計に彼女の存在を強調していた。

 しかし――そんなことはどうでもいい。それよりも深いどん底にぼくはあった。

 神様、ぼくの悪運は全部尽きてしまったのでしょうか。

 違います。ぼくが呼んだのは、すごい探偵なんです。藁にも縋る思いで探偵を呼んだら、自分より年下の絶世に可愛い盲の女の子が来ました! なんて展開は全然望んでないんです。

 さすがに、このゲームは、クリアできません――!

 胃の腑にせり上がるものを感じて、必死に飲み込んだ。


 アパートの階段には、初老の刑事が腰掛けて座っていた。夏っていうのにくたびれたコートを着て、缶コーヒーを持っている。缶の中身は、既に無くなったようだった。

「まあ、兄ちゃん。そういうこともあるって。いやほんと、かわいそうだねえ、そこの自販機でジュースでも買ってくるかい」

「こんな、こんな終わり方になるなんて……」

「まあ、彼女は今君の状況をうちの下っ端から聞いてるみたいだし、今の内に落ちこんどきなよ。まあ、ツイてない人間は、とことんツイてないってことだねえ。かわいそうだけどねえ。こればっかりはねえ。探偵呼んだらかわいこちゃんが来たかぁ。ニアミスだったと思うしかないねえ。まあでも、安心しな。俺が担当している以上、兄ちゃんが捕まってもきちんと捜査してやるよ。犯人じゃなきゃ出してやるさ」

「そういう、問題じゃないんです……」

 アリバイなし、凶器の所持者、第一発見者、密室におまけの目の見えない可愛い探偵さんと来た。これはもう僕の人生も終わったな、はっはっは。はあ。

 深い溜め息の後に大きな入道雲が割れて天使の階段が降りていた。なんとも、誘われている。そんな気がした。

 くそっ! あの探偵事務所、訴えてやる……! ぼくは急いでるってあんなに訴えたのに! 適当なことしやがって……! けれど頭の中で燃え上がった怒りの熱は、横から飛んできた涼しい声でかき消えていた。

「宗像さん。お手伝いしていただけませんか?」

「あっ……はい」

 怒ろうにも怒れない、ぼくはなんて情けない人間なんだ。

 涙を拭うついでに気のない返事を返して、ぼくの体は無気力に脱力したまま動き出した。

 ぼくが目を離していた隙に、彼女は部屋の中を四つん這いになって辺りを調査していたらしい。彼女の綺麗なドレスが埃っぽくなっていて、流石に見ていられなくて、ぼくはそれを軽く払った。最初に触った時はびく、と体を震わせたが、どうも理解しているらしかった。

「あら、ごめんなさい。お見苦しいところを見せてしまって」

「いえ、それより、早かったですね」

「はい。社長に近くまで送ってもらったんです」

「ここまで届けてはくれなかったんですね」

「はい。『多分この辺だと思う』で降ろされたので」

 電話口通りの大雑把な男なのだろう、なんとなくこの子も可哀想に見えた。きっと担ぎ上げられて扱き使われているに違いない。

「そんな……それは困りますね……」

「ええ、でも、やっぱり自分の足で稼ぐのが探偵ですから」

「それは刑事ですよ、探偵じゃなくて」

「あら、そうでしたっけ」

 彼女は小首を傾げた。

 しかし、なぜ僕の部屋なのだろう。普通調べるならあちらの部屋だろう。疑問は口に出ていた。

「なぜこちらの部屋を?」

「あっちは現場保存で駄目なんですって。それより、昨日のことを教えて下さいませんか? 昨日の夜に音を聞いたんでしたっけ。大体の概要はさっきの刑事さんからお聞きしたんですけど……昨日の何時くらいですか?」

 ぼくは背筋に冷たいものが這い上がった。彼女は、現場を見ることすら叶わないのだ。

 とはいえ、無駄な足掻きすら放棄する気はない。必死に思い出す。昨日の夜といっても、正しくはわからない。零時は回っていたと思うが、正確なことは何も覚えがない。

「零時以降くらいで、他はちょっと……」

「では、更にお聞きしますが、宗像さんのお部屋は昨日は窓も玄関も閉めて部屋の仕切りも鍵をかけて眠っていましたか?」

 彼女は部屋の真ん中にある仕切りを左右に動かしながら聞いてきた。

「ええ。ずっと締め切っているので。眠っている時にちょっとだけ音がしただけで、そのまま寝ちゃいました」

 彼女は玄関の鍵をがちゃがちゃと何度も回す。ドアノブを回して、そおっと戻す。

 鍵をそっと戻して、そっとノブを戻した。同じことを二回繰り返す。

 彼女はドアノブのストッパーの部分を指先で押し込みながら、ゆっくりとドアをしめた。その後にゆっくりと内鍵を閉めたが、ほとんど音はしなかった。

「ふむ、では朝にお隣の鍵をポストから発見したときは、どういう形で入っていましたか?」

 どういう形? 意味を測り兼ねて、ぼくはぴたりと止まった。目の前の優雅なお嬢さんは、滑らかで柔らかそうな手を重ねて見せる。

「つまり、鍵は朝刊や朝のチラシの上に乗っていたのか、下に挟まっていたのか、です」

「……下でした」

 鍵はチラシの下敷きになって挟まっていた。

「ふむ。なるほど、お風呂、ちょっと見せてもらえませんか?」

 彼女を連れて風呂場にいく。すると彼女は風呂場の鍵を確認した。

「へえ、内側からだけ鍵がかけられるんですね」

「みたいですね、使ったことはないですけど。それに、外からでも簡単にコインでネジ錠を回せば開けられますし」

 手をぽんと打って、彼女は納得したような顔をしてみせた。腕の間に抱きしめられたぬいぐるみが少し揺れた。

「あの、これ、ぼくの見立てでは『密室事件』なんですけど、実際に、探偵さんが聞いても密室になってるように見えますか?」

「えっと、実は、全然わからないんです……」

 彼女は少し頬を掻いて恥ずかしそうにしながら、小首を傾げた。それはまるで自分の推理を披露するのが恥ずかしいという風にも、疑心暗鬼に見るなら、誰にでもわかるような承前を説明するのに呆れているようにも見えた。

「少し、失礼します」

 彼女はぼくの体に手をそわせて弄ると、胸元をぎゅっと手繰り寄せるように顔を近付けた。そして耳元に唇を寄せ、小さな声で一階に連れて行ってください、と告げた。甘いラズベリーのような香りと体温が耳元から脳髄に駆け上がって、心臓が跳ねた。ぼくは傍目にも真っ赤になっているのを自覚しながら、彼女の手を取って警察と入居者のいない一階に移動した。

「な、なんでしょう」

「誰にも聞かれたくないんです。そうですね。ちょっと、整理してみましょうか。お隣さんの亡くなった場所は玄関から入ったすぐそこのキッチン。お家は全部屋のしきりで鍵がかかるようになっていたんでしたね。そして窓は全部内鍵もあって、お風呂は内側からだけしまるんでしたね」

「はい、それはお隣さんの家も変わらないです。間取りも確認しましたから」

「じゃあ、多分密室です」

「えっ」

 彼女は楽しそうに、にこにこ笑んで見せながらその言葉を反芻すると、小柄な体を揺らして、ぼくをそっと階段の方に向かって誘った。向こう側には夏の高い太陽が眩しく光っている。

「やりましょうか。密室の種明かし。お隣さんの部屋に連れて行ってください」

 逆光の中で彼女は笑う。それは勝利を確信した際に見せるような、余裕を持った笑みだ。

「え」

 金属の階段を靴で鳴らしながら、軽やかに踏んであがる。ぎゅっと握られた手には確信めいた自信があった。




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