盲目探偵――探偵は何も見えていない――
安条序那
密室と盲目――1
――異様なほどに暑い夏の日のことだった。
その日、ぼくはまだ誰も知らない名探偵に出会った。
『肝心なことは目に見えない』とは言うけれど、ここまで『何も見えていない』名探偵も、歴史に類を見ないだろう。
ぼく、宗像伊三は、酷暑の夏だというのに悪寒でダラダラと冷や汗を流していた。
いつも通り不摂生な時間に寝て起きて、お隣さんの家の鍵がなぜかぼくのポストに入っていたのが一時間前。好奇心で開けてみたら――眼の前に死体があったのが三十分前。警察が来たのが、ほんの十分前。
お隣さんはうつ伏せで倒れており、酸素に触れて黒くなった血液が少し固まっている。
「宗像伊三、二十五歳。無職で趣味はなし、と。基本的に家の中に籠りきっていて、最近は宅配便で日々の買い物まで済ませている。新卒の会社が長く続かず辞めたっきりで、それから就職活動もしていない。学歴は平々凡々、特別な経歴もなし、と。なるほどね。今回の動機は、うだつの上がらない人生にむしゃくしゃしたってところか?」
先ほど答えた質問の回答に嫌味を含めて復唱しながら、彼らはぼくのことをじっと懐疑の目で見つめている。刑事と警察官合わせて五人、まるで巣穴から顔を出す蛇のように一斉にこちらを射竦めて、今か今かとぼくが自白するのを待っている。蛇に睨まれた蛙とは、今のぼくのような状況のことを言うのだろう。
「ち、違いますし、知らないんですって。ぼ、ぼくは、今朝目が覚めたらポストにお隣さんの鍵が入ってて、それで、おかしいなと思ってお隣さんの家の玄関を開けたら、そしたら、既に死体がそこにあっただけで、違うんですって」
「何がだ、言ってみろ。こんなの一人しかできる人間いないだろ」
体格の大きな警察官たちがにじり寄ってくる。ぼくが犯人だと確信しているのだろうか、それともぼくを犯人にしたいのだろうか。きっと答えは、どちらもだ。
眼の前のキッチンにはお隣さんが倒れている。刃渡りの長いナイフが突き刺さっていたのだろう。血は完全に乾いていないが既に出血の広がりは止まっていて、死んでいるのは明らかだ。凶器と思しきキッチンナイフは、真っ黒に汚れて彼女の頭の近くに転がっていた。
そのナイフは、昨日の夜までぼくの部屋にあったものだ。昨日作った夕飯もあれで調理した。……それが、どうして知らない間にお隣さんの部屋にあるんだ! 叫びたい気持ちと吐き気を必死に堪えて、なんとか言い逃れる言葉を考えるが、頭は真っ白なまま、何も浮かばない。
「君ねえ、そろそろ認めよっか、自首で逮捕されといた方が色々軽いよ。吐いた方がいいって。ここ、全部鍵閉まってたんだわ。窓も、風呂場も、全部出入りできないわけ。玄関開けたの君だけだよ? 指紋も取れてるし。おまけにこのアパート、入居者は二人だけ。君とお隣さんだけなんだわ。もう、いいんじゃないかなあ、ちょっと言い訳が稚拙なんだよね、昨日の夜にポストになにか入れる音が聞こえたとか、朝にはお隣の家の鍵が自分のポストに入ってたとかさあ、そんなのどうやって信用しろっていうのかなあ。君がちょっと前の時間に殺して、それで気が咎めたから自分で通報したんでしょ。そういうことにしたら? 自首になるよ。そうしといたら」
六十くらいに見える穏やかそうな刑事が、宥めるように話しかける。彼は白髪交じりの髪を掌で撫でつけて、さも『見飽きた』とでも言わんが如き格好である。
「君さ、状況わかってる? 君こないだお隣さん通報したよね? それで警察来てもらってさ、トラブルになってたよね? それでこの事件、君の指紋がついたナイフが間違いなく凶器、じゃあもう君しかいないよね」
刑事の言うことはわかる。疑われるのは尤もだ。
ぼくは二日前、お隣さんを通報した。“田中しずえ”、二十七歳、会社員。
仲のいいお隣さんだったと思う。三日前までは。
その日、お隣さんは夜分にけたたましい騒音を出し、二徹中で朦朧としていたぼくは無性に腹が立って通報した。多分、痴話喧嘩かなんかだったのだと思う。
そして警察官を間に挟んだ、口論というには稚拙な罵詈雑言の飛ばし合いとなり、それからはからっきし、目も合わせず、顔を合わせても返事もせず。そして最後はこれである。
「あのナイフは、確かにぼくのものですけど、でも……」
「指紋にも簡易検査のキットがあるんだわ。君の指紋、さっき取って確認したよね。自分でも確認してみる? あのナイフの指紋と合わせたやつあるよ。君がそれで納得してくれるなら全然見せるよ?」
「ちょっと、ちょっとだけ待ってください……ぼく、やってないんです! 本当です。待ってください!」
「でもさ、そうはいっても、君、アリバイないんでしょ? じゃあもう一旦逮捕させてくれないかな? こんなあっついんだし署で聞かせてほしいんだわ」
わざとらしい舌打ち、彼らが苛ついているのが見える。
「待ってくださいよ……ちょっと待って、例えば、『この殺人』ぼくがやってないってしたらどうなりますか……!?」
「どうって君、そうなったらこれ、『密室殺人』なんだわ。鍵も誰も開けられない、どこの窓も開いてない、指紋もなきゃ犯人はいない。そんなことって、あるかい?」
『密室殺人』。その言葉に鼻先がひくついた。こんな状況、子供の頃に見たドラマでしか知らないけれど、それならアレがあったはず。
「ちょ、ちょっと待って貰っていいですか? 一旦家に財布を取りに戻りたくて……。そのあと、お話ししますんで」
言うが早いか部屋から抜け出して、自室に戻ると、既に様々な関係者がこんなボロアパートに集まっているようで、いつもとは全く比べ物にならないほどの喧騒があった。
とはいっても一階は誰も住んでいない上に、二階はそもそも二室だけ。大家さえも年一でしか顔を出さないこんなアパートでは、確かに自分が疑われるのは無理もないだろう。
けれど、そんなことはもはやもうどうでも良かった。このままだと大した調べもない内に自分は犯人にされ、定職なしの成人異常前科持ち男性になり、社会からも切り離され、どうしようもない人になってしまうのは時間の問題だった。それが事実で見放されるのは仕方ないが、謂れのない烙印は流石に御免被る。ふと、『はて、今と何が変わるのか』と冷静になる自分もいたが、背に腹は代えられぬ。やってもいない罪によって社会から振り落とされてしまっては業腹というものだ。
上がり框を踏み抜かんがごとく玄関を上がり、小気味のいい音でボロアパートが軋めば、狭い戸口には段ボールが一つ置いてあった。捨てるのが面倒な広告チラシ類なのだが、この中に確かアレがあったはずなのである。
鋭い紙の端で指を切りながら、ある一枚の紙を見つけた時、せっかちにも玄関の扉が叩きに叩かれ、刑事の影が小窓から映って見えた。
「そろそろ出て来い。証拠隠してるんだろ」
「まだ五分も経ってないですって! ちょっと待ってください! すぐ行きますから!」
「待てねえって言ってんだろォがっ! わかんねえのかボケッ!!! お前が一番怪しんだよ!」
「ひっ」
今にもドアごと破ってきそうな蹴りが一発入れられて、古いドアの蝶番が嫌な音を立てた。もし立ち退き時に修理代請求されたらそっちに請求書送ってやる、なんて恨めしそうに玄関を見つめると、より大きな一撃が玄関扉に入った。急いで一枚のチラシを持ち上げる。そして書かれた番号にコールを開始し耳元に当てると、三回のコール音の後、受話器が持ち上がった音がした。
「はい、こちら槙島、槙島探偵事務所です。ご用件は。ふう」
一服吐く音と共に、壮年辺りに聞こえる男の気のない返事があり、歯噛みした。こんな頼りなさそうな男なんて! そう叫んでやりたいくらいだったが、喉元で抑えて声を発すると、なんとも情けなく声は震えているのだった。
「あの、チラシ、見たんです。なんでも事件担当してくれるって! あと安い人がいるって」
「ああ~、先週出したやつね。そんで依頼ってことですか、とりあえずお名前頂いてもよろしい?」
ゆったりとした落ち着いた喋りにじれったさで爆発しそうになりながら背中に吐きかけられる暴言に耳をふさぐ。
「宗像! 宗像、宗教のしゅうに石像の像、伊三は伊太利亜に数字の三です! 安食房の四番地に深川荘ってところがあるんですけど、今、ぼくは無実の罪で殺人の容疑がかかってるんです! すぐ、すぐです! すぐ助けていただけませんか?」
「う~ん、あすこですか。了解しました。とはいってもうちに今出れる人材が一人でねえ、あ、むいちゃんコーヒー入れといて、今から書類片づけるんだわ。いいですよ。ご依頼料はどれくらいで考えてます?」
後ろで女の声が聞こえた、そのまま何かを記入する音があり、遂に玄関では金属と金属が擦れる音がして、『開けていいぞ!』と指示するような声さえ聞こえ始めた。
「そちらの見合った料金で!」
見切り発車して声が漏れる。それどころではなくなっている。
よろしい、そうこちらが言ったのを確認するや否や、男の声は声色が享楽味を帯びた。
「なら、とびっきりの名探偵を向かわせますよ。お客さん。ただ、二つだけ、約束をしていただけませんか?」
「は? 約束?」
こんな時に何を言ってるんだ。頭に血が昇って、思わず怒鳴りつけたくなった。契約内容の確認とか、失敗したときのこととかだったらわかる。けど、今このタイミングで『約束』?
「なんですか? 二つって、もうぼく、時間がないんですって。今にも誤認逮捕されちゃいそうなんですって!」
「よく聞いてください。今回、その子のまあ、試運転みたいな現場なので。ああいや、沽券に関わる話なので言いますが決して『始めて』ってワケじゃないですよ。でも経験がちょっと浅くて、それでお客さんには『お願い』をしてるワケです。これさえ守っていただけるならお安くできる」
鍵が開く。暗い屋内に夏の真っ白い光が差し込んで瞼の裏を焼いていた。ドアの向こうには夏の空、蠢く入道雲とはっきりしすぎたコントラストの下手な写真みたいな風景が映っていた。
それから言われたのは、簡単な二つの約束で、誰でも進んでしたがることだろう、少なくともぼくはそう思った。そんな『簡単なことでいいのなら』やるに決まっている。
「『探偵をあなたが補佐すること』『現場では探偵の言うことは絶対』以上の二点です。それだけ」
『それだけですか? わかりました』
「じゃあ、契約完了です。すぐ向かわせます」
ぼくはここで『わかりました』と言ったことを後悔することになる。
それはもう、大きな後悔である。多分、人生最大の。
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