時、われの部屋にて幾度狂ひだす時計の針をそとあはせつつ

面白い! 
連作中の「現実」要素は明らかに大きくなっているというのに、
それらの現実は「見えてるのに触れない(まさにオバケ)」ような感じがするのだ。常に浮遊感が漂っている。
これは一体なんなのだろう。

浮遊感、と言われるとわかったような気になるが、近頃はこの語が非常に気になる。
というのは「頭の浮遊感」と「体の浮遊感」を分けて考えるようになったからだ。

私自身の体験として眠剤を大量に飲んだことがあるのだが、アレは「頭の浮遊感」だった。
絶望的に頭が重くなる。確かに思考にモヤはかかる。
しかし「重い」。
「抽象の天へと垂直に思考を飛ばす」みたいな表現がどっかの本にあったかと思うが(ないかもしれない)、
「頭をボンヤリさせる浮遊感」は「重くて閉塞感がある」のではないか。

逆に筋弛緩剤を大量に飲んだことがある。
筋弛緩剤は接骨院に行けば「肩コリ薬」として貰える。
もちろん「肩コリが酷い」と言うだけならシップや塗り薬の処方だが、強いて頼めば錠剤が出てくる。

これは「体の浮遊感」だ。
私は「体の浮遊感」が好きな人間らしく、「体」が「殻」のようになり、あるいは「人形」のように変身し、
オブジェ化してゆくのを感じるのは幸福だった。
思考は無論、元気に飛び跳ねているのである。
それでも筋弛緩剤を沢山飲むと眠ってしまう。眠剤よりも眠れた。

もちろん読者諸君は私を真似して「眠剤を大量に飲む」「筋弛緩剤を大量に飲む」といった行為にいたってはならない。
そもそも「体を張ってゲットした実感」を「芸術論」にそのまんま持ち込むのはちょっと力業である。




「・時、われの部屋にて幾度狂ひだす時計の針をそとあはせつつ」

あえて「現実」だけを描いた歌を選んだ。
もちろん「幾度狂ひだす時計」というほど何回も何回も狂う時計は実在しないかもしれないが、
フィクションやファンタジーで片付けられない歌、という程度の意味で「現実」だ。

意味だって簡単なのだ。
いや、違う。
やはり何かある。
読み終わり、最初の「時、」に戻ると、この「時、」との呼びかけの意味を考えてしまう。
最初も面白いが、最後も意味深だ。ここで「つつ」で閉じている。

時! 何回も狂い出す自分の部屋の時計、その針をそっと合わせつつ……
非常に散文的な文へと書き換えてしまったが、
この短歌は「ループ性」を狙ったのではないかと思う。
時! という呼びかけが何度も何度も繰り返される。
時計は何度も狂う。
その度に自分は針をそっと合わせる……。

「時、」ではじまり「つつ」で終わる構文も奇妙ながら、内容面もまた綺麗にループしている。
「時、」という呼びかけは永遠に投げられたままだ。
「時、もっと遅くなれよ」とかそういう続きが存在しない。

宛先だけが提示され、メッセージの内容へは永遠に到達しない。
なぜなら「時、」と呼びかけた時点で時がループしているからだ。

なんだか恐ろしい歌である。

もう一首読む。

「・眠れずに寝返りばかりしてゐるとそのうち庭になつてしまふよ」

これはフィクションともノンフィクションとも言えない。
だって全部が「語り」なのだから。
「実際にこういう発言があったならこれは現実を描いた歌だ」などという判定は無意味だろう。
だって語りの内容「そのうち庭になつてしまふよ」が既に嘘くさいからだ。

しかし一方で龍だとか魔法使いだとかいうようなイカニモな幻想からもハズされている。

なんとも面白い歌だ。

ここで気づくのが、「身体的浮遊感」である。
「眠れずに寝返りばかりしている」身体が「庭」になる!
あくまで主役は「身体」であり「思考」ではない。
眠れずに寝返りばかりしていて、庭になったとしても身体は庭になるけれど心が無くなるとは思えない。

また前の方の歌で「時計の針をそとあはせつつ」と、
三人称のような視点で描かれている主人公もまた脳よりも身体だけがある存在だ。
いうなれば人形的な存在である。


「幾度狂ひだす」「時計」に怒るでもなく悲しむでもなく、
何も考えずに「(これもまた幾度も、だろう)そとあはせ」るのである。
動く人形のようではないか。

思うに「やがて百合となる」では「現実」を描いていてもその「身体性」には特徴があり、
だからこそ「身体的な浮遊感」を出すことが出来るのではないか。

だから「現実」ながらも「現実的」ではない。
「リアルより、リアリティを!」の逆で、
「リアリティより、リアルを!」だ。

ちなみに「リアルより、リアリティ」とは甲本ヒロトの言とのことだが、
私は甲本ヒロトの音楽を聴かない。