はなし声

朝吹

はなし声

 

 学生時代、わたしはバイトを掛け持ちしていました。

 どのバイトも大学の友人からの紹介で、学部をまたいだ顔見知りの数十人がシフトを組んでいます。はたらきに行くというよりは、今日は誰と一緒のシフトなのかな? と友達に逢いに行くような気持ちで、毎日楽しかったです。


 同じ大学からだけでなく、いろんな大学からもバイトが入っていました。偏差値も年齢もばらけているのですが、そんなことは誰も気にしておらず、「おはようございます」と現場に入ってタイムカードを押せば等しくバイト仲間で、

「日曜日のライブどうだった」

「その髪型、可愛い」

 などと、なんの垣根もなく、その年齢相応のことを喋れるだけ喋っておりました。


 掛け持ちしていたバイトの一つが、料亭でした。

 下働きには全国の料亭の息子が見習いとして入っている他、大学生の男の子も何人か来ていました。

 若い男女が同じ場所にいるのです。付き合い始める人たちもいて、バイトがはねてからの飲み会もあり、本当にサークル活動のようでした。


「疲れてるんとちがう?」


 F県出身のO君からそう云われたのは、雨の日で料亭に来る客が予約客の他はおらず、暇で、硬く絞った雑巾でその辺りを掃除している時でした。

 悪天候になるとその日にあたっているバイトには連絡があり、「無理して来なくてもいい」と人数が減らされます。どんなに減らされても、わたしは毎回残されていましたから、一応は雇い主から働きぶりを認められていたのでしょう。

 というのも、所詮は学生バイト、うまいこと手を抜いて男の子と喋ってばかりいる女子もいたからです。

 雇い主からわたしが怒られたのはただ一度。

「うちは客商売やで。口紅くらいつけといで」

 呆れたように云われたその時だけでした。

 すっぴんに近い化粧は一応していたのですが、他大学の女子のようにカリスマ読者モデルに寄せたきらきらメイクはしていなかったのです。

 全員が着物をきて、お酒も出すような料亭でしたから、今ならば雇い主の言葉もごもっともと頷けます。

「お前らいまのうちに遊んどけよー」

 からかう板前さんたちには、「はーい」と調子よく応えて、交替でとる休憩や、まかないの食事の間も、学生たちはお喋りに費やしておりました。



 疲れてるんとちがう?

 O君からそう云われたわたしには、疲れている自覚はありませんでした。

「今日はバイトが掛け持ちだったからかな」

 適当にわたしは応えました。

 当時のわたしの愉しみは、バイトが終わった後、銭湯せんとう巡りをすることでした。バイト先から一人暮らしのワンルーム・マンションまで、通り抜ける町には銭湯が幾つか点在しているのです。

 地元密着型の昔ながらの銭湯です。経営が厳しいといわれる銭湯ですが、古い町にあるとそれなりに需要があるのか、いつ行っても客は入っていました。

 銭湯にはサウナ室もあり、ジェットバスもあり、スーパー銭湯のように入湯料金がひどく高いということもありません。

 回数券を使って地元客に混じって広い浴場でゆったりと温まって疲れを取ってから自転車で帰宅する。そしてそのままぐっすり眠る。それがわたしの日課になっていました。

 疲れた顔をしていたのかな。

 О君の言葉は、野菜の根元に残った土のようにわたしの心に少しだけ引っかかりました。


 それからというもの、О君はわたしに逢うたびに、「疲れてるんとちがう?」と云い始めました。連呼されると、さすがにうっとうしいです。

 О君は陰気すぎました。

 同じ職場には、ぱっとこくっては、すかっとふられて次の子に行く男子もいましたが、その彼とはその後も笑顔で楽しく雑談が出来るくらいでした。比較するとО君は元気を上げてくれるどころか、毎回、気分を下げてくるので不愉快でした。

 ところが。



 あれもこれも、のうなった。

 ああ豆腐屋が過ぎて行ってしもうたわ。



 真夜中、わたしの耳もとで中年の男女が喋っています。見知らぬおじさんとおばさんがわたしの枕元で立ち話をしているのが聴こえるのです。幽霊という感じではありません。悪意も感じられません。ただ、わたしの身体は金縛りにあっていました。

 身動きできないまま、深夜に、知らない男女の他愛のないやりとりを耳にしているという不思議な状態です。

 あれもこれも、のうなった。ああ豆腐屋が過ぎて行ってしもうたわ。

 のうなったとは、「無くなった」という意味です。

 朝になってから「変な夢をみた」と目覚めました。


 金縛りにあったせいか、いつもとは違い、身体がひどく疲れていました。

「疲れてるんとちがう?」

 毎度のО君のゆさぶりも、その日ばかりは「そうかもね」と返しました。いつもО君はそれしか云わないのです。

 それから、その夢は続くようになりました。

 深夜だけではありません。

 バイトのない日曜日、心地よい風が入ってくる自室でうたた寝をしている午後にも、中年の男女が耳もとで喋り始めるのです。

 路上の立ち話がすぐ近くにあるもののように耳もとで響く、そんな調子です。いつも同じ男女です。

 会話の内容は、ざあっと砂を流したようで、聴き取れることは少なく、たとえ聴き取れても目覚めると大方は忘れていました。

 夫婦でもない男女の、挨拶から始まるご近所さん同士の世間話を、遠くの未来からわたしが覗いているようなのです。


 やがて就職活動に入り、みんな順番にバイトを卒業していきました。

 わたしを含めた何人かは、女将おかみさんから「うちの社員にならへん?」と誘われましたが、それは辞退し、円満に料亭でのバイトを終えました。

 最後にО君が何か云ってくるのではないかと身構えていましたが、その頃にはもうО君がわたしにしつこいことが知れ渡っており、バイト仲間もわたしをガードしてくれていた上、わたしの態度もО君に対して冷淡だったためか、О君は近寄ってはきませんでした。

 

 料亭でのバイトを止めた、そのあたりで、中年の男女の声はしなくなりました。

 暮らしていた一帯は戦乱や天災で何度か焼失しています。それも百年以上も昔の話です。

 憑(つ)かれてる。

 О君はF県の大きなお寺の息子でした。今でもあれは何だったのかなと想い出すことがあります。

 なお、その時に住んでいた場所は、まったくの偶然ですが、亡くなった伯父が学生時代に下宿していたのと歩いて数歩の処でした。




[了]


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はなし声 朝吹 @asabuki

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