3

 周囲に溢れていた謎の光が収まると、そこには先ほどまでと変わらない鬱蒼とした草むらと、崩れかけた社殿の景色が広がっていた。

「今見たものは、ソラの?」

「蒼佑さんも見たの?」

「愛季もか?ということはソラも?」

 愛季の肩に止まっていたソラに視線を向ける。

「———あぁ、すべて思いだした。余は、あの夏に………。いや、それよりもせつな、主様は!?」

 自分たちが知っているせつなという少女。

 見た目の年齢は若干幼いが、先ほど垣間見たソラの記憶が真実なら、おそらくあの子が記憶の中にいた刹夏之命ということになるのだろう。つまりこの土地は、約千年前に刹夏とソラと海李という男が旅した、霊山とされていた場所ということ。

 ———そしてこの社殿が多分、刹夏が封じられていたっていう………。

「蒼佑さん、どうしたのその右目?」

 不意に愛季から投げかけられた問いにふと我に返った。

「右目の色、せつなちゃんみたいになってる」

「え?」

 懐からスマートフォンを取り出し、内カメラで自分の顔を映すと。

「———なんだ、こりゃ」

 そこに映っていたのは、右目の網膜部分が黄金色に変色した自分の顔だった。左目を閉じてみたが、右の視界に映る色覚自体は特に普段と変わらない。

「さっき変な光を浴びたせいか?」

「いや、お前のそれは先ほど余の記憶を見たからではない。おそらくは過去に———っ?」

 突如言葉が途切れたソラにつられて上空を見ると、そこには常識では考えられない光景が広がっていた。

「………」

 先ほどの記憶で見た人物―――刹夏之命がそこにいた。俺たちの知っている少女の姿ではなく、記憶で見た成人の姿で、夏空の青を背に空中に浮かんでいる。背には鴉のような黒い翼を生やしており、その黄金色の視線は地上にいる自分達ではなくさらに上空、遥か彼方の蒼穹を向いているようだった。

「主様!!」

 地上にいるソラが声高に叫んだ。その声色は千年ぶりの主との再会を喜んでいるというよりは、明確に何かを危惧しているように聞こえる。

「———醜い」

 誰に向けるでもなく発せられた刹夏の声。これまで自分たちが聞いていた『せつな』としてのものと確かに同じ人物のものだと分かったが、今聞こえた声には少女だった頃に僅かに滲んでいた人間らしい暖かな心のようなものが一切失われているように感じた。

「———何もかも」

「せつなちゃん!」

 続けて愛季が名を呼ぶも、やはりこちらに気付く気配はない。

「———見るに堪えない………っ!!」

「せつな!」

 いつの間にか手にしていた黒い鉄扇を刹夏が一振りすると、鼓膜が破けるような凄まじい突風が吹き荒れた。

「うわあっ!?」

「きゃああああっ!!」

 立っていることもままならず、俺たちは自然とその場に縋りつくように蹲った。まるで地面に伏して神に許しを請う無力な人間のように。

「憎い、憎い、憎いっ………!!」

 続けざまに刹夏が背中の両翼を羽ばたかせると、目に見えない巨大な刃が衝撃波となって遠方の山の中腹付近に炸裂した。この距離からでも大量の木々が小枝のように千切れ消し飛ぶ轟音がはっきりと聞こえる。続けざまに放たれたそれらは空に浮かぶ雲を裂き、海を割る。

 まるで彼女に引き寄せられるかのようにどこからともなく黒い雲が遠くからこちらへと迫り、海の波が激しく揺れていた。

 世界の終りと呼んで差し支えない天変地異が起こっていた。

「主様!どうかお鎮まりください!!」

「ダメだソラ、聞こえちゃいねぇ!———ッ、ぐぅ!?」

 突如頭部の内側から激痛が走った。

 ———この感覚、覚えがある………。

 それはこの町で最初にせつなと遭遇したときに感じた謎の現象と同一のものだった。脳裏に過る記憶にない風景。そして何者かの———刹夏の声。

『なんと醜いのだこの世界は』

『人も、命も、何もかも』

『我は認めん。このような、このような世界は』

『―――“お主”のいない世界など………っ!!』

 ただ一人心許せる誰かと共に過ごした、もう戻らない夏。

 怒りと、その裏に隠された深い悲しみが右の“眼”を通して自分の中に流れ込んでくるのがはっきりと分かった。

「………違う」

『認めぬ、認めぬ、認めぬ………っ!!』

「“眼”の霞んだ俺には、お前や愛季の言うことなんかさっぱり分からないけどな」

『我は、我は………っ!!』

「———それでも俺は、この世界の美しさを信じたいんだ」

 それはまるで、天とか神様とかが手を貸してくれたんじゃないかと思うくらい、示し合わせたようなタイミングだった。

 愛季が肩から下げていた鞄の中に納まっていた何かの束が、こちらを襲っていた突風にさらわれて宙を舞った。輪ゴムか何かでまとめられていたそれらは拍子に解け、その様は夏の夜空で散っていく光華の粒のように煌めいて見えた。

 それはこの夏に三人と一羽で集めた軌跡。愛季がカメラに収めた写真の数々。

 どこまでも続く青い空。

 空の色を映す海と、遥か彼方の水平線を見つめる白い灯台。

 緑溢れる木々と、枝葉の向こうから差す夏影。

 風に揺れる草花。

 照り返すアスファルト。

 見渡す限り遠くまで広がる田園。

 数百年の歴史を残す神社と古の巨木。

 どこにでもある町の風景と人々の営み。

 そして、ぎこちない笑顔を浮かべる自分たちの姿。

「あ………」

 宙に舞う夏の想い出の一つ一つを目にした刹夏の動きが、にわかに静止した。

「せつなちゃんお願い、元に戻って!!」

 愛季の切実な叫びが届いたのか、ようやく刹夏がこちらを見た。その眼に映る感情はまるで読みとけず、にわかに恐怖を覚えるものだったが。

「愛、季」

 刹夏の口の動きは確かに愛季の名を呼んでいた。

「主様、どうか我らの声をお聞き届けください!」

「そ、ら………」

「———お前に昔何があったかなんて俺には知ったことじゃないけど」

 風が吹き荒ぶのも構わず、痛む頭を抱えて俺はその場でよろめきながらも立ち上がり、叫んだ。

「お前にとっても、この夏は特別だったはずだろ!!」

 そのままの勢いで手近にあった折り畳み傘―――以前愛季がせつなに与えた白い日傘だ———を宙に浮かぶ刹夏に投げつけた。彼女は避けることも防ぐこともせず、無防備にそれを頭部に受け止めた。

 勢いで彼女の首が少し傾き、上空を見上げるような体勢になった。彼女はそうしてしばらく棒立ちのまま、迫る黒雲の間に見える夏空の青を見つめていたが。

「………っ」

 不意に彼女の金の双眸が閉じられると、代わりにそこから涙が滲みだし、頬を伝って地上に零れた。

「———我が、探していた夏は………」

「せつなちゃん………?」

「海李とそらと共に過ごしたあの日々は、もうどこにも無いのだな………」

「………」

「約束したではないか、海李………っ」

「主様………」

「っ、ぁああああああああ!!!」

 少女の慟哭は空に吸い込まれ、消えていく。

 いつの間にか風は止み、雲は晴れ、海も落ち着きを取り戻していた。

 千年続いた少女を縛る呪いは、今ここに漸く、その軛が解き放たれたのだった。


***

***

***


「おばあさん、レインボージュース一つで」

「はいよ、ちょっと待っててねぇ」

「ふぅ」

 【皇岬パーク】の一件から二週間後。俺は一人で町のかき氷屋へ来ていた。

 ———そういや結局、この店の名前って何なんだろうな?

「あのおばあさん、このお店って」

「はいよ、レインボージュースお待ちどうさま」

「あぁ、はい。ありがとうございます」

 聞こうと思った矢先に商品が届いたことに気をとられてなんとなくタイミングを逸してしまった。奇跡的に間が悪かったらしい。窓口で受け取ったジュースを手に、店先のボロボロのベンチに一人腰かける。今日も日差しが眩しい。もうすぐ八月も終わるが、まだまだ残暑は続きそうだ。

 ———まぁ、なんでもいいか。

 どうせ、じきにこの町から去ることになる。もう二度とここへ来ることはないだろうから。

 手こずりに手こずっていた父の家の整理は昨日ようやく終わった。家具を町のリサイクルショップに売り渡したり、売り物にならないものは町の回収業者に依頼をかけたり。空っぽになった家の中を掃除して、不動産に引き継ぎをして。

「仕事の合間にここまでよくやったよなぁ一人で」

「おばあさん、レインボーかき氷一つ!」

「おや愛季ちゃん。はいよ、ちょっと待ってな」

 聞き馴染んだ声に反射的に振り向くと、そこにはこの夏の間ですっかり日常風景の一部と化した女性の姿があった。

「こんにちは、蒼佑さん」

「あぁ」

「なんですかその生返事」

「顔を合わせるたびに企業の面接みたいな丁寧な自己紹介でもしろっていうのか」

「そんなんじゃないけどさ、もうちょっとこう、嬉しそうにするとかあるじゃない」

「俺にそんな愛想を期待するな」

「もう、そんなだからいつまで経っても写真撮られるときの顔が変なんですよ蒼佑さんは」

「お前の撮り方が下手なだけだ」

「わ!ひどい。私これでもプロの写真家なのに」

 その時、店の中から椀にたっぷりのかき氷を盆に乗せたおばあさんが出てきた。

「はいよ、レインボーかき氷お待たせ。あんたたちいつも一緒にいるねぇ」

「いや、いつもってわけじゃ」

「はい、私達お友達ですから!」

「待て愛季、一体いつから―――」

「あらあら、なんだか自分が若かった頃を思い出すわぁ」

 何かを勘違いした店主のおばあさんはニコニコしながら店の中に戻っていった。

 残された俺は若干の気まずさを覚えていたが、ベンチで右隣に座る愛季はそんなことどこ吹く風といった様子で、貰ったかき氷を美味しそうに頬張っている。出会ったときから本当にマイペースというか、変わらないやつだった。

「———私達、すごい夏を過ごしたよね」

 徐に愛季が呟いた。刹夏の件を言っているのだろう。

「そうだなぁ。不思議な縁というかなんというか。お前の実家が、そうだったんだよな」

「うん」

 愛季の生家である神永家の祖先が、あの日ソラの記憶の中で見た海李という男だった。長い年月が流れる中で本来果たすべきだった役割や在り様が少しずつ失われてはいたものの、生まれながらに青く澄んでいた“眼”がその証明。

「家の仕事なんて興味なかったんだけどな。結果的に私が役目を果たしちゃった」

「それも結局は成り行きだろう。奇妙な偶然というか、運命というか」

 こういうのを、刹夏が言っていた“神秘”とでも呼ぶのだろうか。

「そういえば、ソラはどうしてるんだ?」

「ソラなら多分———」

「———呼んだか?」

 まるでこちらの呼び声を待っていたかのように颯爽と、黒鳥が目の前に舞い降りた。

「あ、ソラ!一人?」

「いいや、余があの御方の傍を離れるはずがない」

「ということは———」

「すまぬ、店主よ。この『れいんぼうあいす』とやらを一つくれるか」

 不意に、風に揺れる風鈴のような凛とした声が耳に届く。

「はいよ。あら、このあたりじゃ見ない顔だねぇ。旅人さんかい?」

「あぁ、そんなところだ」

 そう告げて僅かに笑ったその女性は、迷いのない足取りでこちらのベンチへと歩み寄り、自分の左隣に腰かけた。青みがかった黒い髪に、雪のように白く美しい肌。手にしているのは美貌に似つかわしくない無骨な黒い鉄扇。

「邪魔をするぞ」

「せつなちゃん。こんにちは」

「この姿に戻っても“せつなちゃん”か。なんとも小気味よい響きよの。海李の末裔」

「にゃはは。なんだか今更呼び方変えるのも変な気がして。あ、そういえば朝ホテル出るときに持っていくの忘れたでしょ、これ」

 愛季が寄越してきたのは以前子供の姿の刹夏に持たせていた白い折り畳みの日傘だった。

「あぁ、すまぬ。………しかし、あやつの末裔からもこうして施しを受けるとは、なんとも不思議な心地よな」

 そう言って手にしていた黒い鉄扇と、今愛季に渡された白い日傘を感慨深そうに見つめる彼女の両目は、空と同じ色をしていた。

「着ているそれって、もしかしなくても愛季の服か?」

「うん、さすがにあの着物姿で外を歩いてちゃ目立っちゃうしね」

「窮屈なものだな、今の時代の衣は」

 隣に座る女性―――刹夏は、現代風のノースリーブのシャツに七分丈程度のパンツを着用していた。着ている本人の素材が良いのもあるのだろうが、こうして見るとモデルのような出で立ちだ。

 あの後、刹夏はソラと一緒に愛季の泊っているホテルにいた。部屋からろくに出ずにずっと引きこもっていたと聞いていたが。

「どういう風の吹き回しだ?」

「———改めて、お主らに感謝を述べたいと思ってな」

 その時、店の中から再び店主が顔を覗かせた。先ほどといい、本当に間の悪いおばあさんだ。

「はいよ、レインボーアイスお待ち」

「あぁ、すまない」

 コーンの上でたっぷりと蜷局を巻く七色の不思議なソフトクリームを口にしながら、刹夏は続ける。

「思うところがないわけではないが、お主らのおかげで、我は過ちを犯さずに済んだ。ありがとう」

「言いたいことはいろいろあるが、まず人に感謝を述べるときに食事をするな」

「固いことを申すでないわ。血縁はないというに、どこか彼奴と似ておるのお主は」

「まぁ実際問題、俺の方は特別なことをしたわけでもなければそこまで被害を被ったわけでもないしな。礼なら愛季にしてやってくれ」

「いいよ、そんなの。私だってたまたまこの町に来てたまたませつなちゃんと知り合っただけだったし。さっき蒼佑さんとも話してたけど本当にただの成り行きでこうなっただけというか」

「だとしてもだ。お主らと出会っていなければ、我は今も幼子の姿であてどなく彷徨い続けていたことだろう」

「そう、そのことだけど、どういう原理であれがこうなったんだ?」

「あれは主様を封じる術が半端に風化していたことで不完全に顕現していた状態だ。封印が完全に解かれたことで今の本来のお姿に戻られたということ。記憶も共にな」

「まぁ、子供の姿をしておったとはいえ、我が忠臣が主に気付いてくれなんだことには、我も多少傷ついたがの」

 刹夏が意地の悪い笑みをソラに向けた。

 対するソラは所在なさげに顔を伏せる。

「返す言葉もございません。余は………」

「よい。すべてが忘却の彼方に過ぎ去ってもなお、お主は神永の者と千年共に在り続けたのであろう。そして経緯はどうあれ、こうして今我の元に戻ってきた。それだけで充分じゃ」

 そう言って刹夏が慣れた手つきでソラの小さな頭を優しく撫でる。ソラはしばらく噛みしめるかのように目を閉じていたが、意を決したように口を開いた。

「主様。一つ、海李から言伝を預かっているのです」

 ソラの口から海李の名が出た途端、刹夏の表情が僅かに強張るのが分かった。

「申してみよ」

「『約束を守れなくてすまない』と」

「………ふむ」

「僭越ながら、あの男との約定なのです。主様がこうして戻ってこられた暁には、褒美も処罰も二人で共に甘んじて受け入れようと」

「そうか」

 刹夏はしばらく手にしたアイスクリームを頬張っていたが、やがてぽつぽつと語り始めた。

「そら。いつだったか我は其方に問うたことがある。翼があるお主を縛り付ける我の存在が疎ましく思ったことはないかと。覚えているか?」

「はい」

「我がこの地に封じられたことで、お主は仕えるべき主を失った。我のことなど忘れて、この広い空で自由に生きていくこともできたはず。無論海李もだ。末裔に我のことなど託さずに、彼奴なりの幸せを見つける道もあったはず。其方らは何故そうせなんだ?」

「そのようなこと、考えたこともございませぬ。余の存在意義は主様にお仕えすることだけ。そしてそれは、多少志は違えど海李にとっても同じだったはずです」

「———誠に、我は良い臣下を持ったものよな」

 刹夏は嬉しそうに微笑むと、残っていたコーンを口に放り込んで続けた。

「お主らのような忠臣を、どうして罰することができようか。そら。そして海李。二人は我の誇りだ。本当に、苦労をかけたな」

 そう言って刹夏はソラの頭をまた優しく撫でた。慈しむように、労うように。

 ソラは噛みしめるように、ただ一心にその言葉を受け止めているようだった。

「なんと、有難き御言葉。海李も、きっとあの世で報われたことでしょう………」

 千年。いったい何度人生をやり直せば到達できる時だろう。永遠にも思える時の中ですべてを忘れてもなお、ソラは主への忠誠と、友と交わした約束を守り続けたのだ。

 ———なんというか、凄い話だなぁ。

「よかったねソラ。せつなちゃんに許してもらえて」

「許すも何もないわ。元々こやつらには何の落ち度もないのだから」

 アイスを食べ終わって手持ち無沙汰になった刹夏が、ふと思い出したようにこちらに訊ねてきた。

「時に蒼佑。愛季から聞いたが、この地を離れるというのは本当か?」

「あぁ。元々俺がこの町に来たのは父親の家の後始末のためだ。それが終わった以上、ここに長居する理由はない」

「父君の。そらから聞いたが、お主の名は父君の好きだった空の色にちなんでいるのだったな」

「そうだけど?」

 ―――ソラは一体何を話しているのやら。

 一方刹夏はそれを聞きたかったと言わんばかりに怪しげな笑みを浮かべている。なんだというのだろう。

「蒼佑よ。今日も良い天気だと思わぬか?」

「ん?あぁ」

 八月も終わりに差し掛かっているが、空模様まで大きく変わってはいない。今日も青く澄んだ夏空が遠くどこまでも広がっていた。

「お主の父君も愛したというこの蒼穹、全くもって美しい。今の時代の空の色は千年前とまったく変わっておらぬ」

「あんたはそうかもしれないけど、あいにく俺は———」

「———お主にかけられた呪いも、いい加減解いてやらねばな」

「え?」

 どういう意味かと訊ねるより早く、刹夏が指を軽く鳴らしていた。

 すると自分の中の何かが、ずっと奥深くに巣くっていたものが、瞳の中に溜まっていた濁りが、綺麗に取り払われたような感覚を覚えた。どれだけ洗っても落ちなかった、取り除くのはもう無理だと諦めていた染みのようなものが、突然そぎ落とされた。

「なん、だ?」

「我からのささやかな褒美だ。いや、贖いというべきか。お主はもう、、自分自身の眼で世界を見てよいのだ。蒼佑よ」

「蒼佑さん、右眼の色が元に戻ってる?」

「愛季、其方もだ」

 刹夏が続けて指を鳴らすと、それまで愛季の左眼に広がっていた青い空が消え去り、どこにでもあるありふれた白と黒に戻っていく。

「あっ………」

「神永家の役割も終いじゃ。我はもう、誰の“眼”も借りぬ。我自身の眼でこの世界を見ていきたい」

 ———あれ………。

 ———空って、こんなに綺麗だったか………?

 刹夏が自分たちに何をしたのかは分からなかった。

 ただ、今の自分の眼に映る空の色は、今まで感じたことがないほど美しく見えた。それこそ、愛季の写真を見たときに漠然と感じていた引っかかりなど比較にならないくらい。まるで無限の蒼に吸い込まれるように、その美しさから目を離すことができなかった。

「———空、綺麗だ」

「まったく不思議なものよ。空とはどうしてこんなにも蒼く美しいのか。父君が焦がれるのも無理はないというもの」

「父さん………」

 父のことはほとんど何も覚えていない。死んだと聞かされた時だって別に悲しくも寂しくもなかった。遺品の整理をしている時だって、何の感慨も湧かなかった。

 だけど。

「この空、俺も好きだ」

 やはり、自分達はれっきとした親子だったようだ。

「そういえば愛季、例のものは持ってきているのか?」

 徐にソラが愛季に訊ねた。

「え?あ、そうだった!」

 愛季は思い出したように鞄の中を漁ると、何かの四角い束を取り出してこちらに寄越してきた。

「?なんだ?」

「前にプリントしたのは【皇岬パーク】で飛んでっちゃったから、もう一度作ってきたの。ついでに、あの後あそこで撮った写真も一緒にね」

 受け取ってすぐに気付く。それは写真の束だった。この町で愛季と出会って、ソラと出会って、せつなと出会ってからの“夏探し”の記録。

「私たちのこの夏の想い出。町を離れる前に蒼佑さんに渡したくて」

「………」

 一枚一枚、噛みしめるように眺めていった。

 この町に来て最初に撮った海の写真。町はずれの灯台。どこにでもある田んぼ道。風変わりな建築の町並みに、荘厳な神社。適当に撮ったせいでピントが合っていない写真もある。多分俺かせつなが撮ったものだ。そして俺たち三人と一羽が映った集合写真も。

 その一枚一枚が、夏の日差しのように眩しく輝いていて、美しく見えた。世辞や気のせいなどではなく、心の底からそう思った。

「最後のその写真、私がこの町で撮った中で一番自信あるんだ」

 愛季が語ったその写真は、【皇岬パーク】の高台で撮られたものだった。この【海の見える街】のパノラマ。山の緑と、町並みと、青い海と空。素人目に見ても完璧な構図だと感じた。

「ねぇ、蒼佑さん。蒼佑さんの“夏”は、見つかったかな」

「———あぁ」

 俺がこの世界で生きるに値するものは、確かに。

「ここにあったよ」


***


 翌日、東京へ帰るために荷物を車に放り込んでいざ出発しようとしていたとき。

「で、なんでお前らまで俺の車に乗ってるんだ?」

「にゃはは」

「カァ」

「ふふふ」

 助手席には愛季がにこやかに、後部座席には刹夏とソラが我が物顔でふんぞり返っている。

「お前ら、まさか東京に帰るついでに家まで送ってくれとか言わないだろうな?」

「家まで送って!」

「いやなんでだ!」

「良いではないか蒼佑よ。乗り掛かった舟もとい、車というやつだ。帰るまでが旅とも言うではないか」

「刹夏まで屁理屈を言うな。というかそもそも帰ると言ったってお前の場合家はどこになるんだよ」

「我は千年この地に封じられていた身だぞ。当時の屋敷などとっくに跡形もなくなっていよう。しばらくは愛季の旅に同行するつもりだ。現代のこの世がどうなっているのか興味もあることだしな」

「諦めろ蒼佑。主様は一度おっしゃったことは曲げぬ御方だ」

「はあぁぁぁ」

 盛大な溜息をこぼすと、隣に座っていた愛季が声をかけてきた。

「あのね蒼佑さん。私ね、この町に来て、あの日蒼佑さんに声をかけて本当によかったと思ってる。せつなちゃんとも出会えて、みんなでいろんな“夏”を探して、とっても楽しかった」

 だからね、と愛季は続けた。

「もっと蒼佑さんと“夏探し”、したいな」

「———もう八月は終わって秋が訪れる時期だが?」

「【秋の夏探し】か。それもまた風流なものではないか。お前も言っていたことであろ?」

「俺がいつそんなことを言った?」

「?あぁ、そうか、お主は覚えておらぬのか」


▼▼▼


 二十年以上前。我と幼き日の蒼佑は一度出会っている。


「なにしてるの?」

「………」

 半覚醒状態だった我は幼子の姿で、夢見心地で町の海岸沿いを歩いていた。そこに声をかけてきたのが、当時この町に住んでいた蒼佑。

「………さがしてるの」

「なにを?」

「私の、“なつ”」

「なつ?もう九月になるのに」

「さがしてるの。“なつ”」

「そっか、じゃあ【あきのなつさがし】だね」

 幼い蒼佑はその小さな手で我の手を握って言った。

「………?」

「ぼくもいっしょに、さがしていいかな」


 この時、我の淀んだ“眼”が偶然にも蒼佑と繋がってしまったのだろう。


▲▲▲


「———元はと言えば、初めに言い出したのは其方であろうに」

「?何か言ったか?」

「いや、なんでもない」

 それっきり黙り込んで何やらにやにやしながら車窓から外の景色を眺める刹夏に、自分は首を傾げるしかなかった。

 助手席の愛季が食い下がるように言葉を紡ぐ。

「私、もっといろんな場所に行きたいの。風景だけじゃなくて、人の写真も撮りたい。私たちの住むこの世界は美しいんだって、沢山の人に伝えるために」

「人物撮りはしない主義なんじゃなかったのか?」

「うん。だから、蒼佑さんやソラやせつなちゃんで練習したい。させて?」

「我は構わんぞ」

「主様がそうおっしゃるのであれば余も異論ありません」

 いつかの時と同じ二対一、いやあの時はソラが投票権放棄していたから今は三対一だ。

 こっちを縋るような目で覗き込む愛季を見て、ふと彼女の左眼が目に留まった。最初に出会ったときには澄んだ青をしていたのが、今はもう片方の眼と同じようにまっさらになっている。

 この夏、いつだって愛季は眼を輝かせていろんなところで写真を撮っていた。珍しいものや美しいものを見るたびに子犬のように走っていく後姿を何度見たことだろう。

 カメラを手にファインダーを覗き込むあの無垢な姿が、自分は好きだった。

「———はぁ」

 また溜息を一つ溢すと、気分を変えるように車のエンジンをかけた。

「蒼佑さん?」

「モデル代は安くないぞ。あとお前は人を褒めるのが下手だ。そういうとこから直していけ」

「っ、………うん!頑張る!」

「さて、じゃあ行くぞ!」

「しゅっぱーつ!」

「おー」

「カアァ」

 こうして、【秋の夏探し】が始まった。

 どうやらもうしばらくは、この旅は終わらないらしい。



---終---

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アキの夏探し 棗颯介 @rainaon

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