まるで鶴の飛び立つような

四谷軒

源頼朝、挙兵

 ぎらぎらと輝く、太陽の下。

 本来なら青く見えるはずが、白く見える海で。

 女が、泳いでいた。

 一糸まとわぬ、優美な体。

 発達した乳房に、揺れる臀部を見せつけるように海面を泳ぎ、時折息を継いでは、空を見上げた。

「あの人は今、どうしているか」

 女は泳ぐのを止め、北の方を見た。

 あの人の姿は――見えはしない。

 見えるのは、真鶴まなづるという半島。

 なぜ、真鶴というのか。

「……見れば、まるで鶴の飛び立つような。そんなかたちをしている」

 あの人はそう言った。

 どこが、鶴なのか。

 聞いてみたいけど、あの人は今、石橋山にいる。

「暑い」

 海面に浮いていると、真夏の暑さがと来る。

 北条政子ほうじょうまさこは大きく息を吸って、海中へと潜った。


 時に、治承四年八月(一一八〇年九月)。

 源頼朝みなもとのよりとも、挙兵。まず伊豆いず(静岡県東部)の目代もくだい山木兼隆やまきかねたかを討ち、その後、相模さがみ(神奈川県)石橋山にもった。

 寡兵かへいの頼朝は、このあと石橋山にてやぶれ、房総へとのがれる。その房総で頼朝は勢力を盛り返し、やがては坂東ばんどうを制するのだが――この話は、山木兼隆を討つ少し前から始まる。



わたしを欲しがっている? 山木が?」

 その時、政子は、長女の大姫に乳をあげていた。

 胸をむき出しにしているが、ここは北条館であり、話の相手は弟の義時。何しろ大姫自身が口を離そうとしないので、そのまま話を進める政子である。

「山木とは、山木ですか?」

 山木──山木兼隆は伊豆の流人るにんである。それだけなら、頼朝と同じ立場だが、この時点で以仁王もちひとおうの挙兵という出来事が生じ、以仁王と共に立ち上がり、そして討たれた源頼政みなもとのよりまさが伊豆を知行ちぎょうしていたことで、変化が起きた。

「伊豆は時忠の知行とする」

 相国入道しょうこくにゅうどう平清盛たいらのきよもりが、義弟である平時忠たいらのときただを伊豆の知行――ありていにいえば、国主とした。しかし時忠自身は京を離れられないので、、かつ、平家の縁者であった山木兼隆を目代に任じた。

「これよりは、この山木が伊豆を差配する」

 目代とは、知行国主の現地代理人であるため、つまりはそういうことになった。

 そして山木兼隆の最初の命令が、

「北条は、政子を差し出せ」

 ということであった。



 北条政子は治承元年(1177年)に、源頼朝にめとられたとされる。その翌年、長女の大姫を産んだ。

 これは周知の事実であり、その政子を「差し出せ」と言ってくるということは、相応の理由がある。

「頼朝は、河内源氏かわちげんじ棟梁とうりょう義朝よしともの嫡男」

 以仁王もちひとおうはその挙兵の前に、自らの令旨りょうじを全国の源氏の血を引く者たちにもたらし、挙兵をうながしていた。

 その中で最も警戒されていたのが、頼朝である。

「この山木兼隆、流人として一生を終えるかと思いきや、千載一遇の好機をいただいた。この恩、返さねば返さねば」

 兼隆は、何の所以ゆえんかは知られないが、罪を得て京から伊豆へと流されていた。それを、目代への抜擢である。

 恩を感じると同時に、巻き返してのし上がり、やがては京に戻らんとする野望を抱いた。

「そのためには、まず頼朝。頼朝こそ、源氏のだ。頼朝さえつかんでおけば、乱が起きても大したことはない」

 だがあからさまに頼朝を捕縛すれば、全国の源氏を刺激する。

 動乱を鎮めようとする兼隆の目論見を覆してしまう。



「――そのための、政子わたしですか。山木も考えましたね」

 頼朝の妻である政子を抑えてしまえば、子である大姫もついてくる。

 つまり、頼朝から妻子を人質を取り、死命を制することができる。

「ついでに伊豆の勢族である北条も従えられる。山木兼隆、存外に知恵が回りますね」

「言っている場合ですか、姉上」

 いつの間にか乳を飲み終えた大姫をあやしながら、義時は苦言を呈した。

「山木に呼ばれているのは、姉上、貴女自身ですぞ」

「承知しています。で、頼朝どのは、何と」

「……弓を張っておられます」

「ならばよし」

 政子はようやくにして前を合わせ、胸を隠した。

 義時は気にせぬふりをしていたので、内心ほっとした。

 だが次の瞬間、ぎょっとしてしまう。

「山木に行きます。ともをしなさい」

「えっ」

 弓を張るということは武装するということ。

 頼朝は戦うという姿勢を示していた。

 義時はそう思って、政子と大姫をどこぞへかくまおうとして来たのに、何をするつもりなのか。

「わからぬか、山木がそうと言っていることをする。それゆえにこそ、好機」

 政子はそう言い捨てながら、外へ出た。義時も、大姫を抱えながら、外へ。

 大姫は寝ている。その心地よい温かさを感じながら、義時は考える。

 山木の言うとおりにする。

 それならば、山木は政子を迎えに出るだろう。

 諸手もろてを上げて。

「あっ」

 政子は、それを狙えというのか。

「何という夫婦めおとだ」

 頼朝が弓を張ったというだけで、そこまで考えて行動する。

 そういえば、胸を出したままでいたのも、間者を警戒してのことか。

 いくらなんでも、館の主の娘の乳をのぞくことになることなど、間者もすまい。


 ……日が暮れて、雨が降って来た。

 それでも政子は、山木の館へと向かっていく。



 山木兼隆は討ち取られた。

 娘を連れた政子を迎えようとして、館から出てきたところを襲われた。

「平家の目代、討ち取ったり」

 頼朝に従う宗時(政子の兄)などは、単純に喜んでいたが、政子は冷淡だった。

「それでこのあと、どうするのです」

「三浦を頼る」

 三浦家は相模さがみの三浦半島を根拠とする一族で、頼朝に味方すると明言していた。

 頼朝の勢力はせいぜい三百騎。

 三浦の合力ごうりきがないことには、伊豆一国の支配もままならない。

 この時の三浦は、浦賀水道を挟んで対岸の安房あわ(千葉県南部)にまで勢力が及んでおり、その合力には、かなりの兵力が期待できた。

「それに平家へいけがた相模さがみ大庭景親おおばかげちか、これが三千余騎を率いて、こちらにやって来る、という話だ」

「それは、おおごとだ」

 その驚きの声は、義時だ。

 どこか楽観的なところがある彼は、頼朝が山木を討てば、あとは周囲の豪族たちが勝手になびいて終わりだと思っていた節がある。

狼狽うろたえるな義時、見苦しい」

 これは宗時によるもので、彼は早くもについて話をしたそうだった。

 政子は、頼朝と一瞬目を合わせた以外は何もせず、黙って聞いていた。

「となればこちらは頼朝どのを担いでどこぞの、相州の山に籠もろう」

 その後、その山を目指して大庭がやって来たところを、三浦に背後から奇襲させる。

「これなら、乾坤一擲けんこんいってき。頼朝どのの威光と軍略が光るになりましょうぞ」

 仲間の土肥実平とひさねひらが、それならわが領の石橋山がと言い出し、話がまとまっていく。

 頼朝は黙ってそれを聞き、うなずくばかりだった。

 政子は「ずるい人」とだけ言って、退席した。


 頼朝ら一同は早速に出立しゅったつし、石橋山へと向かった。

 ただ、義時だけは、政子を伊豆山権現いずさんごんげんに匿うという役目を仰せつけられた。

 正確には、頼朝への随身を望んだ宗時に押し付けられた。

 不満だったが、主命でもあるし、姉と姪が大事でもあるので、義時は二人を伊豆山権現へと連れて行く。

 ところが、伊豆山権現の麓の砂浜を前にした政子は、「泳ぐ」と言って、ころもを脱いで、海へと飛び込んだ。

「姉上、姉上!」

 誰かに見られたらどうすると叫ぶ義時だが、抱えた大姫がむずかるので、それ以上は言えず、全裸の姉を見張るでもなく、見守るでもなく、ただぼうっと突っ立っていた。



 ぎらぎらと輝く、太陽の下。

 本来なら青く見えるはずが、白く見える海で。

 女が、泳いでいた。

 一糸まとわぬ、優美な体。

 発達した乳房に、揺れる臀部を見せつけるように海面を泳ぎ、時折息を継いでは、空を見上げた。

「あの人は今、どうしているか」

 女は泳ぐのを止め、北の方を見た。

 あの人の姿は――見えはしない。

 見えるのは、真鶴まなづるという半島。

 なぜ、真鶴というのか。

「……見れば、まるで鶴の飛び立つような。そんなかたちをしている」

 あの人はそう言った。

 どこが、鶴なのか。

 聞いてみたいけど、あの人は今、石橋山にいる。

「暑い」

 海面に浮いていると、真夏の暑さがと来る。

 北条政子は大きく息を吸って、海中へと潜った。


「…………」

 ぶくぶくと口中から泡が生じ、浮かんでいく。

 手足を動かし、無我夢中に泳ぐ。

 そうすると政子は、思考が研ぎ澄まされていくのを感じる。

 だから政子は、泳ぐのが好きだ。

「三浦を頼る、か……」

 泡と共に吹き出た言葉。

 首尾よく伊豆目代・山木兼隆を討ったものの、兵は少なく、「三浦を頼る」と言った頼朝。

 それを察したのか、頼朝の仲間──特に兄の宗時が、土肥実平の領地の山に籠もり、そこへ向かってくる平家の大庭景親の軍を、後背から三浦が奇襲する策を唱えた。

 頼朝が、頼朝軍の一同は今、土肥の石橋山にいる。

「うまくすれば、三浦とのはさみ撃ち、か」

 果たして、うまくいくと思っているのだろうか。

 少なくとも、頼朝はそう思っていない。

 その証拠に、反対しなかった──つまり、賛成もしていないのだ。

「なぜ、賛成もしていないのか」

 そろそろ限界と判じ、浮かび上がると、義時が言った。

「姉上、いい加減にしてください」

「すぐ行く」

 もう一度、はるか真鶴の方を望む。

 舟ひとつ見えない。



 石橋山の戦いは、惨敗だった。

 三浦とのはさみ撃ちを察した敵将大庭景親は、大雨にもかかわらず、即座に石橋山に籠もる頼朝を攻めた。

 しかもその際に、石橋山のうしろの山に僚将・伊東祐親いとうすけちかを入らせ、逆にはさみ撃ちで、頼朝軍を壊滅させた。

 頼みの綱の三浦は、大雨によって増水した川にはばまれ、頼朝の元に馳せ参じることができなかったという。

「くそっ、大庭め。このことを読んで、雨の中でのか」

 宗時などは大いに悔しがったが、頼朝は「仕方ない」と一言だけ言って逃げた。

 逃げた先の、真鶴の「しとどいわや」といわれる洞窟で、義時が合流した。

「遅いぞ」

「すまぬ、兄上」

 義時は、政子と大姫を伊豆山権現に連れて行くのに、思った以上に時間がかかったと言った。

 政子が泳ぎ出したことも。

「泳ぐか。あのじゃじゃ馬が」

 宗時は目をいたが、頼朝は「その時、政子はどうだった」と聞いてきた。

 義時は、裸になったことは割愛したが、ずっと泳いでから、真鶴の方は「舟ひとつ見えない」とつぶやき、「疲れた」と言って、砂浜に寝転がってそのまま眠ってしまったことを語った。

「おかげで、お前が来るのが遅れたか。わが妹ながら、不躾ぶしつけな奴」

 宗時は大いになげいたが、頼朝はしきりにうなずき、「大儀」と義時の肩を叩いた。

「さて、義時も揃った。言うが、われらは負けた」

 頼朝は演説を始めた。

「負けたが、まだ方途みちはある。三浦はまだ、生きている」

 川の増水で駆けつけてこそいないが、三浦は本拠の衣笠城きぬがさじょうへと引き返していた。

「では三浦に向かいまするか。いや、それでは北に向かうことになる」

 北にはまだ、大庭景親がいる。

 向かうのは得策ではない。

 宗時は頭を抱えた。

 手詰まりか。

 何か、道は。

「あ」

 義時の頓狂な声に、宗時はとがめるような目を向けた。

「いえ」

 義時は、ひとつ思いついたことがあると述べた。

「何だ、それは」

「姉上が、真鶴の方には、舟ひとつ見えないと」

「それはさっき聞いた」

「いや待て」

 これは土肥実平である。彼は、このあたりを領していたので、その発言の意味することに気づいた。

「舟が見えないということは、平家方に舟はないということ。つまりこの真鶴から、海へのがれることができる」

 頼朝はうなずき、では舟は用意できるかと聞くと、実平はできますと受けあった。

 不得要領な宗時が声を上げた。

「それで、海へ出て、どこへ」

「安房」

 頼朝は、澄ました表情で答えた。

 義時は思い出す。

 頼朝は言っていたではないか、「三浦を頼る」と。

「そうか、三浦は安房にも勢力を伸ばしている」

 そこへ逃げ込めば、舟が用意できない平家方、大庭景親は手が出せまい。

 そうすれば、安房を領し、頼朝に味方すると言っている、下総しもうさ千葉経胤ちばつねたね上総かずさ上総広常かずさひろつねの助力が期待でき――。



「……見れば、まるで鶴の飛び立つような。そんなかたちをしている」

 あの人はそう言った。

 どこが、鶴なのか。

「それは、上から見れば、まるでの飛び立つようなかたちをしている」

 政子はひとりごちた。


 あれから。

 頼朝は安房へと渡り、の地――房総を支配した。そして次から次へと勢力を拡大し、いつの間にか武蔵を抑え、さらに相模も手中にし、冬になる頃には鎌倉に居を移した。

 伊豆山権現にいた政子にも、鎌倉へ移るよう、義時を迎えを寄越した。

「どうせなら、舟で」

 そう言って馬で迎えに来た義時を困らせたが、大姫が舟に乗りたがったので、結局、舟になった。

 途中、真鶴の岬が見えた。

 夏に、泳ぎながらこの岬を見た時のことを思い出した。


「それは、上から見れば、まるでの飛び立つようなかたちをしている」

 政子はひとりごちた。

 義時は大姫をあやしていたが、「そうですな」とうなずいた。

「……気づいていた?」

「いえ、鵐の窟で」

 頼朝や実平、宗時と話しているうちに。

「思い至りました」

 頼朝は、真上から見たかたちで真鶴、と語った。

 つまりは、鳥瞰ちょうかんした視点で、物事を考えていた。

 真鶴から、安房へ。

 安房から、房総へ。

「三浦を頼ると言った時点で、すでにそう動くことを、決めていたのでは」

「けっして、そうだとは言わないでしょうけど」

 負けて逃げる。

 そうしておいて、実を取る。

 たとえそれが上策だとわかっていても、納得しない者もいる。

 負けで死ぬ者もいる。

 だから頼朝は、そうと考えていることは語らなかっただろうし、これからも語らないだろう。

 それは、あのあと散々平家に追い討ちされた三浦も同じで、だが確実に未来を勝ち取る方途を選んだのだ。

「早くまた、夏になるといい」

「突然、何ですか」

「いえ、また子を産むことになるだろうし、その前に泳ぎたいと思う」

 義時は下を向いた。


【了】

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