この地球(ほし)は竜が落とした左眼と気づきしときに反世界見ゆ

 今回はちょうど十首である。連作としてはスケールが小さいが内容はむしろ濃い。

 たとえば三十首や五十首の錬作であれば「箸休め」的な軽いギャグ系の短歌が挿入されたり
「あえて凡歌を連作の持つ『流れ』の力で光らせて見せる」といった余興じみた一種のアクロバットがなされたりするものだ。

 それが十首だと遊びも余裕もそこまで用意できない。
先鋭化された世界をできるだけ深く読者に届ける。読者を刺すということに要点が置かれる。
とにかく鋭いことが肝要だ。構築や様式の美あるいは「完成度」などはそこまで問題ではない。
ただ短く短くされた言語で、どこまで「自らの視ているたった一つの世界」(それを「幻視」と呼ぶか、「限りなくリアリスティックな視線」と呼ぶかは人によるだろう)に肉薄できるか? 
それだけが問題だ。それだけがこの連作の「成功/失敗」を決める。

 連作の題は「反世界交響楽」。
ひとまず「反世界」が単語として含まれる短歌を二首引用する。

・「この地球(ほし)は竜が落とした左眼と気づきしときに反世界見ゆ」

・「水面にピアノ一台おき放ち反世界交響楽おもへ」

 この二首が核となって連作を「反世界交響楽」として成立させている。

 第一の歌は「地球」が球体であることから連想し「竜」の「左眼」として捉え直してみせる。
ここはシュルレアリスムでも多用されたいわゆる「アナロジー(類似)」の思考だ。
一見跳躍しているかのように見えたとしても、実のところそこまで奇術的な技巧を弄してはいないのである。
ようは「かたちが似ているが全く違うふたつのものを、無理やりつなぎ合わせてみせる」という技巧だ。

 楽しいのは「地球」が「竜」の「左眼」であるという点を「竜が(左眼を)落とした」という繋ぎのストーリーを用意することで、見事に「跳躍」を「物語」へと発展させている点である。

 そして見えたのが「反世界」なるものだ。
「反世界」とはおそらく、この地球なる球体を大きく乗り越えた、壮大で美しい(そしてもちろん残酷な)世界のことであろう。
我々は「反世界」を垣間見ることができる。
地球が「竜」の「左眼」だと気がついた時以外でも良い。
我々が空や宇宙の奥にある何か――その芝居の書割じみた「反世界」を蓋する天を越えたところにある、何か――を我々は見ることができるはずだ。

 見ること、そして書くことはつねに(いつわりの)世界への攻撃である。
さもなくばこの偽の世界を補強するだけのことだ。

 二首目「水面にピアノ一台おき放ち」を読むのは苦労する。
水面にピアノ一台。「革命歌作詞家に凭りかかられて――」くらいしか思い浮かばない。
あるいはドビュッシーやラヴェルの楽曲だが、こんな安易な連想は意味がないだろう。

「水面にピアノを一台おき放つ」のは不可能だ。
なぜならピアノは水に沈んでゆくのだから。
ピアノがずっと水上で静止している不思議な光景である。

 そこで「おも」われるのが「反世界的交響楽」である。
再び矛盾だ。ピアノ一台では交響楽にはならない。
交響楽にはオーケストラが必須である。

 ふたつの矛盾を力業で解消してみせ、作者はただ「おもへ」と命令する。
ただ思うことしかできるはずがない。
水上にピアノは無く、ピアノで交響楽は鳴らせない。

 しかし作者は「おもへ」と「おもへ」と指示するのだ。
この命令は重い。
一体どんな音楽を思えば良いのだろう?

 水上のピアノは薄氷のごとき繊細な危険の上で綱渡りする歌人(また、似た境遇のその他の人々)の姿に似ている。
どうして交響楽なのだろう? 交響楽は様々の音が重なりあって産まれる、リズムよりメロディよりなによりハーモニーと音色の音楽である。
たった一人で薄氷の上、綱渡りする孤高の歌人が「交響楽」を思っている。
不思議な音を聴いている。
どんな音楽か想像もつかないけれど、なにか天上的で豊かな音楽だ。

 沢山の音が見事に折り重なるだろう。
この交響楽に他者の面影は見当たらない。
ただ「歌人の比喩としてのピアノが水上という危うい場所で(聴こえぬ)音楽を聴く」歌としてもよいだろう。
しかし歌人は我々読者を「拒否」してもいないようなのだ。

 もしこの連作の読者諸君に「その気」があるならば、あなたもまた「反世界交響楽」を聴き、また奏でることができるだろう。

 一定のメトードと美学、理論、美意識、モチーフ――そうしたあまりにも散文的な物言いは止そうか。
我々はただ、菫野さんの後に続き得るのだ。「反世界交響楽」を聴き得るのだ。奏で得るのだ。
無論、そのためには非常な研究を要するだろう。
それこそ、当代一流の理論家を集め、議論させ、さらに当代一流の歌人に何度も実験的作歌をさせる必要があるだろう。

 しかしまあ、そう悲観することもあるまい。
ここには大きな足跡が残されている。幻想としての現実(あるいは現実としての幻想)を見た本物の幻視者の足跡が残されている。
我々はゆっくりと、それを辿ることができるのだ。
焦る必要はない。
むしろ落ち着いて、ゆっくりとこの「反世界交響楽」の世界がこの世に残されていることの幸福を味わうべきではないか!

 おお、私の「おすすめレビュー」は長い。
人は自分の実力ではとうてい書き得ぬこと書くとき、その必要にどうしても迫られるとき、足掻くようにして長大な文章を書くものだ。
私のレビューもまた、あまりに長い敗北宣言と言ってよい。

 本当は菫野さんの歌のレビューはもっと頭のよい批評家に任せたいのだ。
しかしそうはいくまい。
ああ、必要性が私を駆り立てたのだ! だからこの文が長いのも許してくれ。読者よ――。