6:つめたい枕

 お父さん。


 背中につぶやいても応えはない。


 こっちを見てよ。


「いい子にしていなさい」


 顔はこちらを向かず、声だけが聞こえる。

 いい子にしていればわたしを見てくれるの?


 こんなに大きな花丸もらったんだよ。

 テストで満点とったんだよ。

 学校で1位になったよ。

 模試で1位に入ったんだ。全国だよ。

 お父さんと同じ大学に入ったよ。

 お父さんと同じ研究をしているよ。


 いい子にしてるよ。それなのに、


 なんで褒めてくれないの?

 なんで頭を撫でてくれないの?

 わたしなんていない方がよかったの?


 きっとそう。

 お父さんはわたしのことが嫌いなんだ。憎いんだ。

 わたしを産んだときにお母さんは死んじゃったから。

 大切な人を奪ったのに愛されたいなんて……。


 そしてお父さんも死んだ。


 目の前には崖。深く暗く、大地を切り裂く絶対の境界。そこに架けられた長い橋にお父さんが一歩踏み出す。


 行かないで。


 呼びかけても、その背中は決して振り返らない。わたしにかまうことなく橋の向こうに歩いていく。

 お父さんの気持ちを知るためには、お父さんと同じ研究をするしかない。同じ場所に立って同じものを見るしかない。


 この橋を渡れば、そこには愛する人が待っている。

 わたしは愛してほしいと思った人のことを知りたい。


 ただそれだけ。



 カーテンの端からうっすらと漏れている光をたよりに、飲みかけの紅茶ダージリンを手探りする。父を真似して机上にいつも置いている。


 時計はアラームの一周前。父の背中を追いかけてきた人生そのもののような夢——もっと正確には父を探していたのかもしれない。もういない父探しは今も続いている。


 ふたたび目を閉じても、冴えた頭はコマのように回転し続ける。ハシモトさんが言った言葉が、どうにも頭に残っているみたいだ。


 感情とはそれ単体で存在しうるものなのか。それとも複雑な相補性によって心という総体を成していて、どれかを失えばバランスを崩して全体が壊れてしまうものなのか。


 だとしたら愛を知らないわたしの心ははじめから壊れているのではないか。

 わたしは他人を愛せる人間なのか。


 あんなにも深く誰かを愛することができるハシモトさんが羨ましい。そしてその対象になれたらどれだけ幸せなのか。


 同じことを何度もなんども考えているとアラームが響いた。濡れた枕の冷たさには、もう慣れた。

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