10:愛する価値は

「所長」


 呼びかけるとワタナベはゆっくりと振り返る。スキンヘッドのシンプルな輪郭はガラス張りの向こう側、窓いっぱいの山々にふち取られている。木々は若葉のついた枝を大きく揺らしている。


「君か」


 外で吹いているのであろう春風の音はしないが、しわがれた声は静寂のなかに消え入りそうだ。頭皮を縫い合わせた大きな傷跡と、たるんだ皮膚の奥にある表情筋が口を懸命に動かす様がどこか痛々しい。


「お久しぶりですね」

「お偉いさんの説得に方々巡っていたものでね。ここに来るのも半年ぶりだ」

「収穫はありましたか?」


 ワタナベは応えない。この結果からして、なしのつぶてと言うことだろう。

 それも当然だ。犯罪の撲滅を謳うプロジェクトの全責任者であり被験者でもある者が、理由はなんであれ殺人を起こしたという事実は噂として広まりきっている。ワタナベはこの城を守りたい虚栄心からこの城を失ったのだ。


「いまさらなにをしに来た」

「辞表を提出に」

「……そんなことか」


 ワタナベは革張りのチェアを鳴かせながらゆっくりと座る。


「あの論文をどこで見つけた。……いや、今となってはどうでもいいことだ」

「やはりあの論文をご存知だったのですね」


 目の前の応接用テーブルには『希望の架け橋の隠された闇‼架橋施術で廃人に⁉』という見出しの週刊誌が投げ捨てられている。


「あの論文の存在は誰も知らないはずだった。ワタシ以外は誰も」

「父はわたしに託したんです。きっとこのために」

「あんなものを公表すればこの機関が閉鎖されることは分かっていた」

「感情は対をなす複数組の情動による相対的、相補的なものである。感情とは程度の問題であって、片方がなければ対である他方も存在できない。負の感情の抹殺は正の感情も殺す。つまり架橋効果は憎しみだけではなく、その対である愛情をも抹消する。それが父の残したあの論文の意味するところであり、自身の最大の功績に対する告発でもあった」


 ワタナベは大きく息を吐きながら、


「そんなものを公表しようとするなんて気が知れない」

「だから父を殺したんですね」

「人聞きが悪いな。ナノマシンをいれて少し夢を見てもらったんだよ」

「視覚ニューロンの操作を?」

「平衡感覚にも少しね。目の前になにがあるか分からず、まっすぐ立つこともできない。それだけのことだよ」

「やはり父が施術を受けていたというのは嘘だったんですね」

「あの時うまくいったから君にもできると思ったんだがね。あの被験者の邪魔がなければ」


 平然と言ってのけるワタナベの言葉にぞっとしながら、


「あなたは科学の進歩を止めていたんです。それも意図的に」

「死ぬまで隠し通すつもりだったさ。せっかく架けた橋を取り壊してしまうことが進歩だと言うのか。科学や人類の発展のためには研究を続けるべきだ」


 窓を背にしたワタナベの顔は暗い影の奥だがその瞳は特別に黒く、じっとこちらを見つめている。


「私利私欲のためでしょう」

「ここはワタシが建てた城だ。壊されるわけにはいかない」

「あなたじゃない。父です」

「君の父親はひどい人でね。助手だったワタシにあらゆる雑務を押し付けるんだ。自分は指示を出すだけでね。雑務に忙殺されていたワタシが成し遂げたことが架橋施術の実証だ。それがなければ金は集まらない。この城はないんだよ」

「すべての理論を構築したのは父です。架橋施術の実証だって、父が倫理の視点で躊躇していた外科手術をあなたが強行しただけです。実際あなたは、それ以外なんの成果も出せなかった」

「それが気に入らなかったんだよ。」


 ワタナベが吐いたのは憎しみの言葉。憎しみを予感させる意味が込められているが、宿してはいない。言霊のない言葉はただの音に近い。


「キリタニ・啓示を欠いた機関は発足からしばらく成果がなかった。次第に予算は削られていき、機関の閉鎖が噂されるようになった。ちょうどそのころ君がナノマシンによる架橋施術を実用化した。閉鎖の話はなくなったが、ワタシのこころは壊れてしまった。君たち親子のせいで」

「なら所長をやめてしまえばよかった」

「ワタシにはこの“橋”しかなかったのだよ。人生をかけてなにかを残せればと思っていたが、それも露と消えた」


 ワタナベは自嘲的に笑い、


「お偉いさんたちも逃げ腰でね。機関の閉鎖は既に決定している。辞表は持ち帰ってくれ」


 無言で背を向けてドアノブに手をかけたとき、ひとつの問いが浮かんだ。ワタナベの頭皮に刻まれた傷跡と、ワタナベの中に入ったナノマシンのモニタリング結果が意味すること。それは父との約束で見ることのなかった世界の姿。


「愛のない世界はどんな景色ですか」

「憎みあうよりはいくらかいい。今でもそう思っているよ」


 それはわたしと一緒だ。彼と出会う前、父の愛を知る前のわたし。


「愛することの価値はそんなものなのでしょうか」


 それは以前のわたしでは思いもよらない言葉。今のわたしの言葉。

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