9:見知らぬ罪

 機関側に続く橋のちょうど真ん中には父のためのささやかな慰霊碑がある。機関発足の前日、父はここから谷底へと落ちてしまった。


 機関職員による、これまたささやかな慰霊の催しは30分ほどで終了した。すでに太陽は山の裏側に没していて、薄暗く寒さも増すばかりだ。誰もが寒風に背中を押されるように足早に仕事に戻っていき、既にわたしとワタナベの他にはだれもいない。


「父はどうして亡くなってしまったんでしょうか」

「……なぜだろうね」


 わたしは花束の横に並んだ供え物を見つめていた。備えた紅茶にはすでに湯気はなく、ダージリンの香りも風の彼方に消えた。父が好きだったこの香りは届いたかな。ワタナベは足元から彼方へ続く谷を眺めている。


「あの被験候補もサインを渋っているんだろう?久しぶりの候補者だったのに」

「刑期を短縮するために受けようとしてたんですが、その必要がなくなったようで」

「受ける理由がなくたったと……。これでまた成果が遠のいたか」


 あの人を自分が成果を出すための道具としか見ていないその物言いに、わたしは言葉を返す。


「父がいればもっと研究が進んでいて、世の中はもっと良くなっていたでしょうね」

「君もお父さんに負けないくらい優秀だよ」

「誰も父には適いませんよ」

「ワタシは……、あの人に負けてなどいない」


 それはワタナベらしくない強い口調だった。


「ですが父を失ってからの我々はなんの成果もありません」

「ナノマシンで施術の精度があがっている」

「ですが副作用の原因を突き止められずにいます」

「君のお父さんなら解明できたと?」

「あるいは既にしていたのかもしれません」

「なんだと」

「父が亡くなる直前に発表しようとしていた論文はご存知ですか」

「所詮ただの噂だろう」

「わたしもそう思っていました」

「……なに」

「その論文を見つけたんです」

「いったいどこに」

「わたしにしか分からない場所です。父が残した最後の論文が……」


 そこで唐突に世界がひっくり返った。アスファルトの冷たさがコートを通り抜けて背中に広がる。ワタナベに押し倒されて馬乗りになられたわたしは、肺が圧迫されて悲鳴すら上げられない。


「どんな内容だ」

「……!」

「言え」

「……ご存知のようですね」


 絞りだした言葉を聞くやいなや、ワタナベはポケットからなにか取り出した。それが管針型注射器、中にはナノマシンが入っていると分かったのは振り上げられた腕をとっさに受け止めてからだった。


「……なにを」

「最初の質問に答えてやろう。キリタニ・啓示ケイジの死因はね」


 耳をふさぎたかった。でも首元まで迫っている注射器の針先は、両手でないと止められない。

 ワタナベの口は無情にも、顔中の皺を刻みながら動き出す。


「君なんだよ」


 ワタナベは続ける。


「アイツは自らに施術を行っていた。なぜだと思う」


 額に青筋を浮かべ、注射器をわたしに刺そうと震えながら、


「君を憎んでいたんだよ。君の母、やつにとっての妻を殺した君をね。だが君を憎むことがアイツ自身の苦しみにもなっていた」

「……嘘よ」

「本当さ。谷底の死体から当時君が開発したばかりのナノマシンが検出された。警察は施術後の一次的なせん妄によって谷底へ落ちたと結論をだしている。外科施術に否定的だったあの男が、君への憎しみを忘れるために君の成果によって施術するとは皮肉だね」


 ワタナベの不気味な笑みが少しずつ近づいてくる。


「知らなかったのも無理はないさ。遺族でもある君を気遣って、警察は君には伝えなかったんだ。ワタシもね」


 少なくとも最後は嘘だ。唯一成果をあげているわたしが間違っても研究をやめないようにとでも考えたのだろう。

 注射の針が少しずつ身体に近づいてくる。


「君は両親の命を……」


 そこで突如ワタナベが身体の上から引きはがされた。ワタナベはどこからか駆け付けたハシモトともみ合いになり、今度はハシモトに注射器を押し当てようと躍起になっている。なんども上と下が入れ替わりながらの殴り合い。冷たい橋の上でしばらくそうしていた後、ハシモトがワタナベの上に跨って注射器を押し当てた。圧力を感知した管針型注射器はゆっくりとナノマシンを放出していく。


「大丈夫か」


 ハシモトはワタナベに跨ったまま言った。


「はい」


 わたしはいつの間にか彼の手を握っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る