11:さよなら

 吹き抜ける風を横切りながら長い橋を渡る。

 機関の外へ出るのはいつ以来だろう。ずっとこの橋を渡らなかったのは研究に夢中だったからではなく、ここを通るのが嫌だったからなのかもしれない。父から遠ざかってしまう気がしたから。


 立ち止ったのはあのささやかな慰霊碑の前だ。供えた紅茶ダージリンからのぼる湯気はたちまち風に消えていく。風に飛ばされないよう、その下にさっきの辞表を置いた。


 辞表は父への餞別のつもりだった。父が遺した研究やブリッジ機関から離れるから。結局ワタナベは受け取らなかったが、ここがあるべき場所なのかもしれないと今は思う。


 さよならは違う。父のことを今までで一番身近に感じているから。

 父が作り上げ、わたしが守ってきた場所はもうない。だけど後悔はしていない。


 父との最期の約束を彼に伝えていたらどんな顔をしたのだろう。


『お前に愛する人ができたらこの中を見なさい。』


 論文が入ったお守りを託す父がどうしてそんな約束をしたのか、今ならわかる。彼と出会う前、愛を知る前のわたしならワタナベのようにあの論文を公表することはなかっただろうし、父を知るためにと自分に架橋施術をしていたと思う。愛を知らなければ、愛なんていらないと考えてしまう。


 あの論文を公表しようとしていた父。父の大切な人はわたしだったんだと彼は言ってくれた。


 立ちあがると、ひと際強い風に背中を押された。もう行きなさいと父が言っているような気がした。ブリッジ機関を背に橋の向こう側へと歩き始める。なんだかアールグレイが飲みたい気分だ。


 この橋を渡れば、そこには愛する人が待っている。もしそうなら、この心はどれだけ救われるのだろうか。


「わたしは依頼人じゃないですよ」と言えば彼は振り返り、

「個人的な趣味です」と答える。


 今は人の心が分かる気がする。素直じゃない彼の心も、飛ぶように軽いわたしの心も。

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この橋を渡れば 木戸相洛 @4emotions4989

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