3:ダージリンのぬくもり

「着きました」


 魂が抜け落ちた、意味があるだけのただの音のような冷たい声。拘置所で感じたのと同様、やはりワタナベの声にはそんな不気味さが漂っている。


 目の前の城を見上げる。白い外壁も曇天に鈍く染められ、漂う陰鬱な空気は強い谷風でも吹き払うことができない。


「どうぞ」


 ワタナベに促されるまま城に入ると、大きな瞳が私を見つめた。


「初めまして。ハシモトさん」


 出迎えた華奢な女性はそう言うなりゆっくりと歩みよる。胸元までまっすぐ落ちた黒髪と、色白な肌と白衣によるモノクロームな出で立ちだ。


「あなたを担当するキリタニです。よろしくお願いします」


 差しのべられた白い手を握ると、彼女は優しく微笑んだ。その笑顔を見て、一緒に城を見上げていた妻を思い出した。今となっては眩しすぎる憧憬が目の前をよぎり、「よろしくお願いします」と返すので精いっぱいだ。


「それではワタシはこれで」

 と言ってワタナベが奥へ進んでいった。キリタニさんが続ける。


「プロジェクトについての説明はありましたよね」

「ワタナベさんから。大発見をしたキリタニ博士がこんなにお若いとは驚きです」

「それは……父のことです。架橋効果を実証したキリタニ・啓示ケイジはわたしの父なんです」

「それは失礼しました」

「いえ、慣れていますから」


 彼女は俯きながら微笑んで、


「わたしはキリタニ・ケイと申します。父と同じ感情生理学という分野の研究者で、このブリッジ機関の主任研究員です。ここにいる間は下の名前も覚えていただくといいですね。名字だけではややこしい話もありますから」



「立派な建物ですね」


 椅子と机が置かれただけのオープンな応接スペースに通されるなり訊いてみた。城のような外見からは一転して普通のオフィスと変わらない内装だが、ひとつのプロジェクトに国がここまで金を出すのかと思わせる。


「満足に買い物にも行けないですけどね。配達ドローンの充電器まであるんですよ。遠すぎて帰れないからって」

「ここは谷に囲まれた山の中の島のような場所ですもんね。まさに陸の孤島。仕事終わりに街で夜遊びともいかないですね」

「わたしはここに泊まり込んでいます。研究は趣味みたいなものですし、他にやりたいこともないので」


 そう言って彼女は給茶室へと入っていった。

 内装を見回しながら席に着く。紅茶の香りとともに戻ってきたキリタニ・憬は問いかける。


「前の場所はさむかったでしょう」

「ええ。温かい食べ物もろくに出なかったのでなおさら」

「皆さんそう言います。でもきっとここを気に入りますよ」


 差し出された湯気たつ紅茶を口に入れる。拘置所で食べた冷めかけの薄味スープ以来の上客に胃袋が驚いている。


「ダージリンがお好きなんですか?」

「いえ、わたしではなく……。実はわたしはアールグレイのほうが好みです」

「私もです。アールグレイのシンプルで分かりやすい香りが性に合ってまして」

「気が合いますね」


 とはいえ紅茶の一服は心が安らぐ。一息ついて彼女が話し出す。


「ハシモトさんのお仕事は」

「探偵ってやつですね」

「事件を解決したりするあの」

「それはアニメやドラマだけです。私は事件を起こした側ですし」


 質の悪い冗談を言ってしまったと思ったが、キリタニさんの笑みに救われた。

 そこで初めて会話を楽しんでいる自分に気がつく。軽口をたたくのは、楽しいと感じるのはいつ以来だろうか。


「実際は地味な仕事です。浮気検証のための尾行とか張り込み、聞き込み。あとはSNS漁りとか」


 彼女はいたずらっぽく笑いながら、


「まるでストーカーですね」

「好きでもない相手にそういうことをするのは大変なんですよ。趣味でもないですし。依頼があれば仕方なくやっています。仕事ですから」


 もう一度笑う彼女を見てから紅茶を飲んだ。温もりが体の内側から包んでいるようだ。

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