4:不気味の谷

 自分の子供が自動車に轢かれて死んでしまったとしましょう。ひとしきり泣いたあなたは我が子の命を奪った車に憎しみの矛先を向ける。その時あなたが目にするのは、


 ①自動車運転システムを搭載したアンドロイドがハンドルを握っている。

 ②その車にハンドルはなく、座席の下にはめ込まれたCPUが同じシステムで操縦している。


 ①のとき、あなたは事故を起こしたアンドロイドの個体を憎むでしょう。しかし②のとき、あなたの憎しみはどこへ向かうでしょうか。

 自動車メーカー?

 CPU?

 アルゴリズム?


「これはキリタニ・啓示ケイジの調査で実際に使われた設問です。結果はさまざまでしたが、CPUやアルゴリズムを憎むという回答はありませんでした」


 背を向けてホワイトボードに書きながら、時にこちらに振り向いてホワイトボードを指さしながら、キリタニ・ケイ博士は説明する。その度に黒髪がふわりと宙を舞う。


「憎しみの対象となったアンドロイドと自動車メーカーの共通点はなにか。CPUやアルゴリズムとの違いはなにか。キリタニ・啓示ケイジが示したのは、憎しみの対象には自分との共通点が必要だということです」


 要領を得ない私を見て、博士が続ける。


「アンドロイドはいわずもがな、会社というものにも社長などの責任者がいます。それに対してCPUやアルゴリズムといった物体や概念に人間との共通点を見いだすことはできません」


 博士はホワイトボードの一番下を赤ペンで丸く囲み、


「ここからキリタニ・啓示ケイジが導き出したのは人形の精巧さに対する反応から発見された不気味の谷の正体。それは『自分に似ているという直感的認識』と『受け入れ難い点があるという現実』の乖離に伴う認知的不協和、そして自分は違うと思い込む防衛本能だったのです。そうして生み出される、自らに“似て非なる者”に対して抱く不気味さは人の排他性の根源であり、嫌悪や憎悪という感情の基盤なのです」


 人形の外観を人に近づけるにつれて親和感は上昇していく。しかし類似度がある閾値を超えた途端、親和感が急激に減少する。そして人と見分けがつかなくなると親和感は急激に上昇する。人にプログラムされた非線形な認知特性バイアス


「その憎しみが事件や社会問題を引き起こすと」

「紛争や差別、世代間の分断など山積みの社会問題の根本原因は全てそこに行きつくと言っていいでしょう。『架橋効果』というのはこの “不気味の谷を起こさない “ことです」


 フリーハンドで書かれた谷と、そこに架けられた橋を表す赤い線が描かれたホワイトボードを背にした博士に応える。


「不気味の谷は憎しみの表出形式の一つではなく、むしろ憎しみそのものということですか。似ているからこそ小さな違いを無視できなくなると」

「同じ種で争い合うのはその環境において支配的地位にある生物だけ。自分に協力的な個体は子孫を残すうえで有利になりますが、 “敵対的・非協力的”な同じ種は最大の障害になる。つまり同じ種に対する排他性をもつことも進化論に基づく考え方です」


 あの時、間男の腹に包丁を突き刺したあのとき、たしかに私は憎んでいた。間男だけでなく、何年も連れ添い愛した妻を。


「つまり不気味の谷による不気味さや嫌悪はそもそも似ている存在、つまり他人を排除するための機能だということなんです」

「人の社会性と矛盾するように思えますが」

「だからこそ我々の研究が必要なのです。不気味の谷による憎しみが犯罪や差別など種々の社会問題の原因である以上は対処が必要です」


 いわば心のアップグレードですね。博士はそう付け足した。

 心の谷に橋を架け、憎しみの芽を摘む。それが彼らブリッジ機関の目的。


「しかし似ているが故に嫌うなんて、自己嫌悪みたいですね」

「おもしろいですね。たしかにそう言うこともできるでしょう」

「私は感情はもっと複雑なものだと思います」


 博士は大きな瞳をさらに見開き、こちらを見つめている。


「どのように」

「感情は……バランスだと思うんです。対になるもの同士が補い合うような」


 私はあのとき燃え上がった憎しみと妻への愛を思い浮かべた。どちらも心を焦がすねずみ花火のように、制御不能で暴れまわる。


「感情の複雑さに対してこの理論が発展途上であることは否定しません」

「その不完全さを承知の上で、あなたはその”橋”を信じているんですね」

「科学は信じるものではありません。わたしは人の心を理解したいだけです」

「より深く心を理解するために被験者が必要ということですね」

「それは……」


 博士は言葉が続かなかったことそのものがバツが悪いとでもいうように目をそらした。


「私は架橋施術を受けます。妻が待っているんです」

「怖くはないのですか?わたしが言うことではないですが……」

「キリタニさんはご自身に施術をしないのですか?」


 博士の視線がこちらを捉えなおす。私の言葉には触れず、


「奥様のことが大切なのは事件の報告書からも理解していますし、施術の動機もある程度は把握しています。ですがわたしにもしっかり説明する義務があります。特に副作用はハシモトさんに大きく関係するかと」

「施術に副作用が?」


 質問に答える代わりに「説明に戻ります」と言い、


「施術による架橋効果には嫌悪や憎悪の低減、および衝動性の抑制について一定の効果が認められています。一方、主な副作用が3つほど確認されています」


 そう言って、博士は裏返したホワイトボードに箇条書きしていく。


 ・趣味や好物への意欲、関心の低下

 ・社会性の低下(職場、家族、友人との関係の破綻)

 ・パートナーや家族への愛情の低下


「目下の研究目標は副作用の軽減です」

「副作用が重い場合は」

「過去には……自殺した方もいます。負荷もリスクも大きい外科手術による、ごく初期の未熟な術式ではありますが」


 言葉を飲み込めていない私を見て、博士が続ける。


「施術はハシモトさんの奥様への思いを変えてしまうかもしれないんです」

「それなら今の術式は」


 切って返した言葉に、博士は言葉に詰まった。


「今の術式はどんな方法で、どんなリスクがあるんです」

「現在の架橋施術はナノマシンを用いたものです。注射で体内へ入ったナノマシンは血管から脳内へ進出し、1週間ほどはカウンセリングと並行した脳活動のモニタリングを行います。どの神経回路が不気味の谷にあたるのかを解析し、特定します。そしてそこを部分的に切断した後、再びモニタリングを行って脳活動への影響を観察します。これを何度か繰り返し、カウンセリングとテスト結果を踏まえて施術が完了します。以前行われていた外科手術——自殺者をだしてしまった術式に比べて負担もリスクも小さく済みます。合併症の可能性もないですし、基本的に一発勝負な外科手術と違って段階的な施術段階のコントロールが可能ですから、“本来切断するべきでない回路を切ってしまう”ミスの可能性も低いです」

「どれくらいの期間がかかるんですか」

「もちろん個人差がありますが、1か月もあれば完了するかと」

「1か月か」


 まだ1か月も妻に会えない。その事実だけが心に重くのしかかった。

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