この橋を渡れば

木戸相洛

1:“こちら”側

 差別が生まれるのは、異質性でなく同質性が高いからである。

 ——セルジュ・モスコヴィッシ——


 愛と恐怖(テロ―ル)を区別することができるだろうか。その手段においても、その現れ方においても、その目的においても区別がつくか。

 ——パスカル・キニャール「音楽への憎しみ」——




「あなたは“不気味の谷克服プロジェクト”の被験候補に選ばれました」


 寝室で妻の間男に包丁を刺してからひと月が経った頃、拘置所でかけられたその声も冷たかった。思いやりを張り付けたような表情とのギャップは不愉快さすら感じさせる。


「憎しみの根絶を目的とする国家プロジェクト。ブリッジ計画といわれることが多いですが、ご存知ですね」

「ええ、まあ」


 満足げな微笑みに張り替えた顔に愉快さは感じられない。スキンヘッドにのせられた大げさなシルクハットもなにかと釣り合っていない。

 机に置かれた名刺にはワタナベという名前とブリッジ機関という組織名、国家プロジェクトを担うらしいたいそうな肩書が一続きに記されている。


「我々ブリッジ機関は通常よりも強い感情を抱く傾向がある方を対象に、被験者としてご協力いただいてプロジェクトを進めています。過ちを犯してしまうほどに強く、大きい感情を」


 私の苦い顔を確認して続ける。


「本日はハシモト様が被験者の条件に合致するかを確認するために訪問させていただきました。ワタシは守秘義務を負っていますので、ここでの会話が裁判に用いられることはありません。できるだけ本心をお話いただければ」


 そう言いながら、こちらから一度も目をそらさずにファイルを開いた男は「それではいくつか質問を」と続ける。


「あなたはご自身を衝動的、あるいは感情的だと思いますか」

「今は衝動的だと思います」

「……次の質問です」


 今の一言でなにをそんなに書き込んでいるのか?と訊きたくなるほどメモをとる手は止まらないが、最初から決まっているのであろう質問はその手を無視して続けられる。


 Q:あの時に戻れるとしたら、その衝動を堪えることができますか?

 A:自信はありません。


 Q:あの時の自分は紛れもなく自分だったと思いますか?

 A:ある意味では自分ではなかったと思います。


 Q:……あの時とはどの時のことを想起しましたか?

 A:それは、まあ……事件でしょう。


 Q:そのときハシモトさんはどんなことを考えていましたか?

 A:……。


「繰り返しますがこの会話が裁判に使用されることはありませんし、録音もしていないので安心してください」


 考え込む私を見て、男は的外れな気遣いをする。人間味のない冷たい印象からは少し意外な、しかし的外れな気遣いだった。


「考えることができなくなっていたんだと思います。憎しみで頭がいっぱいになっていたというか」

「なるほど」


 男はファイルを柏手かしわでのように勢いよく閉じ、


「やはりあなたは我々のプロジェクトに必要なお方だ」


 微笑みを張り付けたままさらに続ける。


「プロジェクトへのご協力には当然、ご本人の同意が大前提です。我々としましては是非プロジェクトへご協力いただきたく、まずはプロジェクトの概要をご説明いたします」

「はあ……」


 早口でまくし立てる男——ワタナベに呆気にとられている間も説明は止まらない。


「“不気味の谷”をご存知ですか?」

「精巧すぎる人形は気味悪く感じてしまう、というあれですよね」

「おっしゃるとおりです。プロジェクトの根幹は『憎しみという感情の根源はこの不気味の谷によるものである』という発見、そしてその不気味の谷を——つまり『憎しみそのものを克服する効果』の実証です。この2つを成し遂げたキリタニ博士は、不気味の谷に橋を架けるようなこの効果を“架橋効果”と名付けました。この架橋効果の社会実装を目指すのがブリッジ計画であり、我々ブリッジ機関の使命です。ご理解いただけましたか」

「なんとなく」

「プロジェクトの意義にご賛同していただけるのであれば、ぜひ我々のオフィスでより詳しいお話をさせてください。ご協力いただければ、特例で恩赦が与えられます」


 私が首を縦に振るには最後の一言で十分だった。妻のもとへ一刻も早く帰るために。

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