7:言葉のぬくもり
「泣いていたのですか」
部屋に入るなり、わたしの顔を見たハシモトさんはそう言った。
「いえ……」
眼が赤いせいだろうか?そんなにも人をよく見ているのかと驚いてしまった。その声色が泣いてもいいんだと言っているように思えて、視界がどうしようもなく滲みはじめる。
目じりに指を添わせながら、
「ごめんなさい」
「あやまることじゃない」
彼はうなずいている。
「お父様のことですか」
「え」
涙がこぼれそうなことを忘れ、わたしは顔を上げる。
「少し調べてみたらいろいろ見つけまして」
「週刊誌の記事ですか」
「はい、まだアーカイブが残っていて。職業病で調べ尽くしてしまうもので……」
「そうですか」
父が亡くなった当時、似たような記事はいくつかの週刊誌に書かれた。そのひとつだろうな。
「父がすぐそこの橋から転落したのは事実です。原因は分かっていません。お酒も飲まない人だったので」
「つらい話を、すみません」
「いいんです。何年も前の話ですから」
「時間が解決しないこともあります。何年も変わらない思いがあるんですから」
わたしは小さくうなずいた。そしてどうしてか自分の人生を語った。自分のなかに抱えていたものが涙と一緒に流れ出しているように。
「母がわたしを出産するのはとても難産だったそうで、それが原因で母は死んでしまいました。父は研究ばかりで家にほとんど帰らなかったので、家ではずっと一人でした……。きっと愛されていなかったんだと思います。むしろ憎まれていたのかも」
「
「そんな勇気はないです。ただ、同じ研究をすれば父のことを理解できるかもしれないと思ったんです」
「なるほど」
「大学院生のとき、父の教え子の研究室でナノマシンによる施術を実用化する研究をしていました。それまでの外科手術よりもリスクを減らすことで、施術が社会全体に広まると考えたからです。その成果が評価されて、ちょうど発足する機関の研究員に採用されました」
「お父様はなんと」
「久しぶりに会った父は約束してくれといいました。施術をわたし自身にはしないという約束です。心を研究しているのだから、その対象を遠ざけてはならないと」
「だからは自分に施術をしないのですね」
「はい。その約束がなければとっくにしていたと思います」
「私が思うに」
少し迷った後、彼は切り出した。
「キリタニ・
少し間をおいて彼が続ける。
「それは研究者としての矜持を教えただけではないと思います。約束は教えるのとは違う意味がある。
それを聞いてやっとわかった。わたしはそう言ってくれる人を探していたんだ。愛されるに足る人間なのだと言ってくれる誰かを。彼はこれ以上ない言葉でそれを言ってくれた。
「正反対の感情が共存するなんて、父の理論にはありませんでした」
「あの瞬間の私もたしかに妻を憎んでいました。でもその憎しみは愛情があったからこそではないかと思うんです。一見相反する感情が心の中の同じとき同じ場所に共存することはなにもおかしくない。理論が発展途上だと言ったのはあなたじゃないですか」
「……そうですね」
いつのまにか頬をつたっている涙を拭いながら彼の目を見つめた。この人と話していたい。もっと知りたい。人の心ではなく“この人の”心を、全てを。
彼は「ご存知でしょうが」と前置きし、
「意識は感情を自分自身の行動から推測している、という話があります。鉛筆を咥えて本を読むと肯定的な感想が増えるんです。口角があがっていることで自分が笑顔だと認識し、自分はこの本をおもしろいと思っていると推測する。だとしたら涙は悲しい気持ちのシグナルだ」
「わたしは悲しいのですね」
「悲しみの厄介なところは忘れたいと思わせることです。記憶は忘れられても、感情は忘れられないのに」
彼は紅茶の入ったカップを持ち上げ、そして傾ける。
「口はもともと食べるためのものなのに、人は語ることにずっと多く使っている」
「コミュニケーションは社会性の基盤ですもの」
「私が思うに、語ることも涙と一緒なんですよ。自分がなにを感じ、思い、考えているか意識には分からない。口からついてでた言葉がそれを教えてくれる」
小さなテーブル越しにダージリンの香りが漂ってきた。その時どうしてか、異性とお茶をしていると意識してしまった。
「父も似たことを言っていました」
「お父様はなんと」
「愛情に定められた形はないのに、これが愛だと言い切れるのはどうしてなのかと。そのあとに架橋施術をしないよう言ったんです」
愛とはなんなのだろうか。
そう自問しながら研究に没頭する父の背中を思い出す。
「貴方はわたしよりも人の心がわかっているみたいですね」
「わからないですよ。女心は特に」
自嘲気味に笑った後、彼は一枚の紙をひらひらと泳がせてみせる。
「それは?」
「離婚届です。事件よりも前の日付で。こんなに前から妻の心は私から離れていたんですね」
「そんな……。どうするんです?」
「わからない」
彼は口元をおさえ、独り言のようにつぶやく。
「妻の心をどうにかできないかと考える自分と、そんなことはもうできないと諦める自分がいる。自分がどうしたいのかも分からない」
「ハシモトさんは本当に奥様を愛していたんですね」
その質問に彼は体を背け、
「それも今となっては」
その背中は研究する父と同じ寂しさを孕んでいる。いたたまれなくなり、窓に映った彼の顔になげかける。
「貴方は間違っていない。なにも」
すると彼は潤んだ目で振り返り、震える声で言った。
「貴女はもっと自分を愛していい」
こころに風が吹いた。冬の冷たさを吹き払う、あたたかい風だ。
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