キリギリスが鳴いている

秋犬

キリギリスが鳴いている

 深夜ラジオを聞きながらダラダラしていたら、電話が鳴った。


「暇? 今からちょっと出てこれない?」

「暇っちゃ暇ですけど」


 ミカ先輩からの要請なら断れない。さっと外行き用のTシャツと短パンに着替えて、私は虫の声がやかましい夏の夜に飛び出した。古いアパートの電灯に大きな蛾が体当たりしている下を潜り、ミカ先輩の部屋まで歩いて十分少々。ノックをして鍵のかかっていない扉を開けると、扇風機の風に乗って人間の匂いがした。


「ほら呼んだら来るんだよ、メグはさ」

「呼んでおいてその言い草はなんですか」


 ミカ先輩は酔っていた。缶ビールの転がる室内にいるのはミカ先輩の他にリツコ先輩、イツキとヤスタカにりょーちんにまゆっぺ。いつものメンバーに加えて、あとは知らない奴。


「初めまして。金子亘かねこわたると言います」


 ワタル君か。どうやら初参加の後輩らしい。


「それじゃあ、ワタル君買い出し行ってきて」

「え、僕ですか?」

「買い出しは下っ端の仕事なのだ~」


 あー、ダメだ。ミカ先輩完全にダメになってる。リツコ先輩を見ると、申し訳なさそうな顔をする。


「じゃあさメグちゃん、ワタル君と一緒に行ってもらえない?」

「いいですけど、来たばっかりなのに買い出しって」

「ウケる! メグが一番買い物上手、だから……」

「ミカちゃんはお水飲もうね」


 リツコ先輩に介抱されているミカ先輩を置いて、私はワタル君と買い出しに行くことになった。最近ここから歩いて数分のところに出来たコンビニに行くと、夏の空気を忘れるようにガンガンに効いた冷房に頭をやられそうになる。焼酎とジュースとつまみ、後はお駄賃としてアイスを私は籠に入れる。財布はミカ先輩のものを持ってきているから問題ない。


 荷物をワタル君に持ってもらって、私はアイスを食べながらミカ先輩の部屋までの道を戻る。


「なんだかゴメンね、初めての場所で買い出しなんて」

「いえ、いいんですけど……」


 ワタル君は困っている。そりゃそうだ。初対面で同年代とはいえ、変な年上の女の人と一緒にいきなり買い物に行けって言われたって困るだけだ。


「あの、メグミさんって、彼氏いるんですか?」

「はあ?」


 なんだこいつ、いきなりぶっ込んでくる奴だな。


「あの、僕……地元に彼女、いるんで……」


 そこで私は何が起こっているのか察した。


「ふふ、あはははは! なんだ、大丈夫よ!」


 つまり、ミカ先輩がたまにやる「おふざけ」に我々は巻き込まれているのだ。暇を持て余した若者なんてろくなことを考えない。恋の相手がいない奴を数人宅飲みに呼び出して、あーだこーだとくっつけようとする。リツコ先輩とヤスタカはそれでくっついた。りょーちんとまゆっぺはくっついて別れて、またヨリを戻すらしい。そんで頑なに相手を持たない私にミカ先輩はこのワタル君をぶつけてきた、という話のようだ。


 どうせ私が来るまでろくでもないことを吹き込まれていたのだろう。いたいけな若者をたぶらかす悪い集団だ。許せない。


「大丈夫大丈夫、別に君のこと取って食いやしないから」

「そうなんですね」


 ワタル君はほっとしたようだった。悪の巣窟であるミカ先輩の部屋の下まで来て、私はポケットからミカ先輩の財布をワタル君に渡す。


「じゃあさ、先入ってて。ヤニ入れてから行くから」


 ついでにワタル君に空のアイスの袋を渡しておく。このくらいのサービスはしてくれても罰は当たらないってもんだぞ、若者よ。


「はい、わかりました」


 ワタル君は安心したように階段を登っていった。私はアパートの階段の脇の縁石に腰掛けて、ポケットから煙草を取り出す。


「ちくしょー、彼氏がいなくてなんだってんだあ」


 火をつけて思いっきり煙を吐き出すと、嫌な気持ちまですーっと煙に乗っていってしまうような気になる。煙の先を目で追いかけると、ミカ先輩の部屋の灯りが見えた。だいたい中でどんな会議をしているのかは想像が出来る。しかし「メグちゃんをワタル君とくっつけよう大作戦」は残念ながら失敗しているのだ。ざまあみろ。


「彼氏がいなくても、私は楽しいんだよバカヤロー」


 ミカ先輩の配下に入る前に、二人の男と付き合った。ひとりは付き合ってるんだか付き合ってないんだかよくわからんはっきりしない態度で自然消滅した。もうひとりは「煙草なんか吸う女は女じゃない」と私の何やらにダメ出しをしてどこかに行ってしまった。そう言えばホテル代は私が立て替えたままだ。返してほしい。


「よお」


 上から声をかけられて、私は空を仰ぐ。私をこの一味に引き込んだ張本人、イツキがアパートの階段から降りてきた。よろしくない集まりが定期的に行われるミカ先輩の部屋だが、禁煙だけは固く徹底されていて煙草勢は階段の下に設置された桃の空き缶に吸い殻を捨てるよう言い渡されていた。


「ヤニ摂取?」

「ん、まあ」


 イツキはそのまま私の隣に座ると、煙草を取り出す。虫の音がやたらとやかましい。


「火ぃ要る?」

「お、悪ぃな」


 イツキの咥えた煙草に、私は火を近づける。お互いの阿吽の呼吸で、無事に火は渡ったようだ。


「なんでわざわざ来たんだよ」

「呼ばれたから」

「女なんだから夜中に来るなよ」

「いいじゃん、どうせ私なんて誰も襲わないし」


 なんだこいつ、真面目か。


「どうだった、ワタル君」

「真面目」

「だよな」


 イツキは笑う。


「ミカ先輩が連れてきたんだよ。つがいが必要だって」

「それ絶対本人が楽しいだけじゃん。さっき聞いたけど、ワタル君彼女いるってさ」

「へぇ。アイツやっぱり真面目だ」


 それから私たちの間に沈黙が走る。吸い殻を桃缶の中に落とすと、イツキが口を開いた。


「実はさ、ワタル君のためにお前呼ぼうって言ったの俺なんだ」

「へ?」


 何それ、全然真面目じゃない。


「俺もお前が誰かとつがいにでもなってくれりゃ、諦めつくかなあって思ったんだけど」

「はあ?」

「あーダメだ、悪ぃ、酔っ払いの戯れ言だと思って忘れてくれ」


 え、なに?


「ダメ、忘れない。私まだ飲んでないし」


 やだあちょっと、そんなの聞いてない。


「じゃあ飲もうぜ、俺の部屋で」


 イツキは吸い殻を捨てると、ぱっと私の腕を掴む。


「……いつから?」

「お前が前の彼氏の愚痴言ってたとき。あーこいつ笑い話にしてるけど絶対傷ついてるじゃん、ホテル代踏み倒されるとかアホかって思ったら、なんか、俺が何とかしてやりたいなって、そこから」

「それって同情してるってこと?」

「別に。俺は女として、お前好きだよ?」


 急にはっきり言ってきやがった。酔っ払いめ。


「で、飲みに来る?」

「行く」


 私はイツキの腕に絡みつく。急に人生が面白くなってきた。


「お前、実は酔ってるんじゃねえのか?」

「私はまだ飲んでないもん」


 それから酔っ払いが急にキスしてきた。すごく味のする濃厚なキスだった。それでわかった。こいつはマジだ。


「いいの? 私なんかで」

「俺の惚れた女を侮辱するな」


 私たちはそのままミカ先輩のアパートを後にした。虫の音が相変わらずやかましい。卵を産んで、次の子孫を残すために彼らは歌う。それなら私たちは、何のために恋をするのだろう。


 太股を蚊に刺されていることに気がついた。私はそっと爪で跡をつけて、後でイツキに見せようと思った。



〈了〉

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キリギリスが鳴いている 秋犬 @Anoni

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