翻訳家の朗読


  *


 その人は色々な人の話を聞くのが好きで、様々なところへ出かけていく。だからその人は誰も話してくれないような荒野をたくさん旅してきて、それは荒野であったなぁ、という気持ちで思い出すことはあるが、その人自身がそれを語るわけではない。その人はよく、文学だとか文化だとかの話をする人のところに出かけていって、お金を払ったり払わなかったりして、椅子に座り、ノートに話をメモしていく。そのメモの中にも、たくさんのアスタリスクが隠れていて、言ってしまえばアスタリスクの一大繁殖地になっている。先日、その人は翻訳家たちの講演を聞きに行き、韓国語の詩の朗読を聴いた。聴いたのは二つの詩だった。申瞳集の「いのち」という詩と、姜恩喬の「つつじ」という詩だ。その人は韓国語がわかる訳でもなくて、翻訳家が詩を韓国語で朗読してから同じ詩を日本語でも朗読したので、その人はその詩をまずは意味をとることのできない韓国語として聴いた。そして、その後に聴いた日本語の詩もすぐに忘れてしまった。それはその人が心ここに在らずであったというのではない。いや、そうであったのかもしれないが、その人の心は韓国語の響きに打たれていた。その人は韓国語がわかるわけではないが、韓国で作られた配信ドラマや映画や楽曲にはよく触れていた。そして、そこで聴いた詩の朗読は、そのどれとも違っていた。大学の広い講堂で、暗く静まり返った会場に、その詩は、ひとつひとつの音としてゆっくりと落ちてきた。その人は沢山の耳が暗闇の中で耳をすませている音を聴いた心地がした。まるで雪がしんしんと降り積もるように――しんしんと、これは雪が消える音であったのだ――韓国語の音が詩の響きとして、映画やインタビューのにこやかな響きではなく、ある種の孤独な、誰かの苦しみや、吐息をすぐそばで聴いたような、それでいて誰かが楽器を演奏する手つきを見ているような、そんな音がした。翻訳家は韓国文学は「愛」と「恨」の文学なんです、と語った。「恨」というのはハンと読み、日本語でいう恨みの意味ではない。成就しなかったものへの哀惜。そして「恨」の文学は日本の植民地支配に端を発した韓国の苦痛に満ちた近代現代史を背負っている。その人のノートにはびっしりとメモが書かれていた。その言葉はあなたに読まれることはない。もしかしたらその人にすらも。その人はまた旅をし、ノートをびっしりと言葉で埋め尽くし、アスタリスクは風に吹かれて、その人の身体にぶつかり続ける。その人はもしかしたら、荒野を旅しながら、アスタリスクを全身に浴び、ノートに書き留めているのかもしれない。その人が振り返れば、そこには車窓があり、その向こうの景色では雪が荒野を覆っている。そのことをあなたはきっと忘れてしまう。

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雪のふる旅 アスタリスク 石川ライカ @hal_inu_

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