白い荒野


  *


 荒野を旅していても、本を読んでいる間は迷子になっていられる。本はいつでも脱出可能な迷宮だ。本を閉じれば迷宮は姿を消す。本を読む人はいつだって背中に背負った緊急脱出装置(たとえばパラシュートとかそういうもの)を気にしていて、それを失えば帰ってこられなくなってしまう。文学部の人たちは、パラシュートをギリギリまで開かずに堕ちていくスリルを楽しんでいるのかもしれない。本を読んでいる間は、節操もなく、自分の焦りを焦らせてあげられる。それは泳ぎの下手な人に似ている。でも上手くなる必要はない、その水はあなたのためのものなのだから。でもその水で死ぬこともある。かといって泳ぎが上手くなる必要なんてどこにもないとその人は言うけれど、泳ぎ続けていたらいつか上手くなってしまうものかもしれない。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。あなたというのは二人称で、その人からすればあなたはその人が登場する文章を読む人だ。その人はあなたの話を聞きたがっている。けれど、その人があなたの話を聞くことは決してない。その人がここに書かれている以上は。でも、それでも、その人のために、あなたのことを少し書いてみようと思う。あなたが常にいま(おそらく、この文章からはずっと先の未来で)読む時間を現在に持ちながら、読む人であるならば、ここにあなたを書くことはできないのだろうけど、でも「あなた」を書いてみようと思う。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。ちょっと前にそのように書いた。その時の緊張感をわかってくれるだろうか。あなたは、「あなた」と書かれなければこの世界に参入する契機を見つけられないかもしれない。書かれたとしても、参入できないかもしれない。でも、とりあえず書いた。あなたは読む――そして忘れる。きっと忘れるはずだ。列車の乗り換えのタイミングで文章から目を上げ、もしかしたら本を閉じ、鞄にしまってしまうかもしれない。その時に、あなたはきっと読んだことを忘れる。これは同意してもらえるのではないかと思う。読んだものを覚えているよ! という人もいるかもしれないけれど、それはきっと覚えていることを覚えているだけなのだ。あなたは忘れる。だからこそ雪を降らせることができるのだ。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。雪は白くて、きっとこの文章の背景よりも白い。あなたの読んだものにも、きっと雪が積もっていく。そう、あなたの頭の中には、絶えず雪がしんしんしんと降っているだろう。アスタリスクは黒い線になって滲んで、そこに残る。その上にも雪が積もる。その人が旅した荒野も、語られた言葉も、やがてあなたの雪が積もって、白い背景に、白紙の大地へと戻っていく。それは荒野であるだろうか?

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