雪のふる旅 アスタリスク

石川ライカ

アスタリスク

 旅先では本は読めない。旅の途中で本は読める。

 いつだって物語は中断されてから再開されるものだからだ。二十分ちょっとでまた乗り換えなければならない列車の座席に腰を下ろし、数分かけて本を鞄から出すか出さないか決めあぐねる。頭の中では鞄の底から容易く引っ張り出した本を、気ままにパラパラとめくっている。しかし内容は頭に入ってこない。頭の中で開いた本からは文章が抜け落ちてしまっている。列車に揺られながら白いページが沢山収められた本をパラパラとめくる。子供のころ、ドラマやⅭMに映る本は全て偽物で、その中身は新品の歯磨き粉のようにつやつやとした白い紙が詰まっていると思っていた。クリーム色の、誰にも書かれていない紙たち。頭の中では、読むことは難しく、書くことは容易い。まだ書かれていない紙、まだ絞り出されていない歯磨き粉のチューブ。その人は鞄に手をあて、ふと、これは旅の途上なのだ、という思いに囚われた。それが旅であるか旅でないかは自己申告制になっている。たとえ「これは旅だ」と口から溢してみても、旅慣れていないその人はすぐにその旅が放った言葉のように宙を舞って、その人自身が旅のつぶやいた言葉にされてしまう。旅の途上……それは可能性の海に押しつぶされた荒野だろう。そこには荒涼としてなにも見えない、微かに吹雪いているように感じる、ざらざらとした風。その風がその人の身体に押し付けてくる粒子は、雪ではなくて、たとえ結晶の形をしていても指の上で溶けたりしない。それはたとえばアスタリスク。確固とした形を保つ、インクの染み。どこからやってきたのかわからない言葉。言葉のふりをしている記号、空白を埋めようとしてどこからかやってくる粒子。それが風の中に満ちているもの。いや、ほんとはもっと色々なものがその風の中を舞っていて、その人の頬や額や顎や唇にふれて心をざわざわさせる可触性のものが、ただここではアスタリスクと呼ばれているに過ぎないのかも。言葉にならない存在。それがその人の顔に吹きつける。アスタリスクはどこからやってきて、そしてこの列車はどこへゆくのだろう? 目的地につかない限り、その場所を歩くことはできず――通過しない仕方で歩くことはできない――つまりは出会うことのできない場所のままだ。その人は目的地を決め、旅を続けるが、目的地を決めた途端にそれ以外の場所は到達する前から過ぎ去ろうとし始めるということに気づく。すべての場所を目的地にすることはできない。早朝であっても、深夜であっても、車窓から見る景色はその人にとって永遠に手が届かない荒野だ。

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