第12話 吉光
宇佐市と豊後高田市の境、地図の上では山地を示す緑色に染まった部分に、鬼だけが暮らす小集落がある。日本の創生から長きに渡り岩峰の洞穴で暮らしていた鬼達が、時代の変遷と共に人目に触れるようになり、明治の前期頃に国から人間としての戸籍を与えられたことを契機として形成された集落である。
集落の外れには小さな洞穴が1つ空いている。そこは大昔の住居の名残で、今は害獣の巣窟となっているから入ってはならぬと、集落の子供達は耳が痛くなる程しつこく言い聞かされていた。
しかし吉光だけは、集落の元締めである父から「お前には教えちょくけん」と洞穴の中へと連れて行かれた。懐中電灯の肌色とも橙色ともつかぬ光を頼りにして、所々苔むした地面を踏みしめて一歩、また一歩と奥へ入ると、5mも歩かない程度の距離に突如として木製の檻が現れた。檻の中には若い女が座り込んでおり、懐中電灯の光を受けても輝きを見せぬ暗澹とした黒目で恨めしそうに吉光の父を睨みつけていた。
父いわく、女は"葉子"といって親戚の1人であるらしい。何故閉じ込められているのかと聞くと「危ない力を持っているから」だという。
元より鬼と呼ばれる種族は、先祖からの遺伝によって特別な法力を得て生まれる。それはたいがい災厄を払う力とか、豊穣をもたらすとか、人間にも恩恵をもたらすようなもので、そういう力を持つ鬼は信仰の対象とされ人間に迎えられてきた。
しかし中には鬼にも人間にも脅威となり得る力を持つ者がいて、大昔は危うい法力が観測される度に力の所有者を抹殺していたものだが、いくら抹殺しても何年かすると誰かの家の子が突如として同じ力を有してしまうので、使われなくなった洞穴に牢を設けて所有者を監禁することにしたのだという。
父は葉子を「名前だけで人を殺す女」と言った。葉子は名前を把握した相手を殺すことができると、直接手を下すこともなく、同姓同名が存在しようが関係無く、狙った相手に事故なり希死念慮なりを起こさせて殺すことができると、そう言って「お前の名前は教えちょらんけん気をつけぇよ」と忠告した。
それから程なくして、集落の中に住んでいた吉光の伯父が川に落ちてふ死んだ。伯父はしばしば洞穴に入っていく姿が見られており、伯父が葉子に殺されたのだと睨んだ伯母が親類を連れ立って洞穴へ乗り込んだが、座敷牢の戸が開けられ、中はもぬけの殻になっていた。
葉子の行方を追って、集落中の大人が離れた親類に手紙やら電話やらで周知をかけた。その頃の集落は子供の目から見ても異様な程殺伐としていて、大人達が口を揃えて言う「子供は気にせんでいい」という言葉が、起きたことの深刻さを物語っているように思えた。
結局、現在に至るまで吉光をはじめとした集落の鬼達が葉子によるものと思われる不審死に見舞われることは無く、現在でも吉光の父による統治の下で平穏な日常を送っている。かつて葉子の失踪に血相を変えていた大人達も、今では葉子のことを一切口にしなくなった。忘れたというよりも、敢えて口を噤んでいるかのように。
吉光は高校を卒業した後、集落を出て宇佐市内にある真言宗の寺院の僧侶となった。進路に悩んでいた矢先、集落の鬼達と親交のある住職から「跡継ぎが欲しい」と声をかけられたことがきっかけだった。
住職が妻と2人で営む寺院に住み込み、住職の導きの下で厳しい修行に励んだ末に僧階を得、葬儀や法要での読経、檀家の相談への対応など複数の仕事を1人で行えるようになった頃、吉光は再び葉子の名を聞くこととなった。
発端は鬼囲に住むという老爺が寺に駆け込んできたことだった。夏の盛りの頃で、背中に大きな汗ジミを作った汗だくの老爺が畳に突っ伏した瞬間に、死臭に似た悪臭が鼻をついたことが吉光の記憶に強く印象づいている。
老爺は錯乱した様子で鬼囲の伝承について話し「本当に鬼がおった」「殺される」「孫娘を嫁にやるけん鬼を祓ってくれ」などとまくし立てた。そうしてしばし同じような話を繰り返したのち、突如として脳天に釘でも刺されたような悲鳴を上げたかと思うとその場に倒れ込んだ。
住職の妻が携帯電話で救急車を呼び、住職が心臓マッサージを試みる横でAEDを起動しながら、吉光の脳裏は老爺の話を反芻し続けた。大分県内に生きる鬼の元締めとして同族の所在を網羅している熊埜御堂家で、同族の話をするのが好きな父の口から鬼囲の伝承など聞いたことが無かった。忘れているだけなのか、本当に聞いたことが無いのか、いくら記憶を掘り起こしても、それらしい話は思い出せなかった。
吉光はその日のうちに実家へ連絡し、老爺のことを話してみた。父は鬼囲の伝承に「人間はちょっと自分達と違う
そこから一週間が過ぎようかという頃、老爺の家族が寺へ挨拶に来た。浅黒く焼けた痩せ型の男と、セーラー服姿の少女。服装の割に大人びた、色気すら感じる少女の顔を見ながら、吉光は「これが例の孫娘か」とだけ思った。
彼等いわく老爺はくも膜下出血で、病院に運ばれてから間もなく息を引き取ったとのことだった。彼等の主たる目的は老爺を介抱したことへの御礼だったようだが、帰ろうとしたその間際、男が吉光の方を向き、躊躇いがちに歩み寄ってきた。
「お宅様は鬼の集落から来られたそうですね…ひとつ、聞いていただきたいことが。娘のことなんですが」
男は少女を指し、このような話を始めた。
鬼囲には、かつてその地に住み着き先住民を支配した鬼の血を引く"田染"という一家がいる。一家とは長い付き合いで、対面して話す限りでは普通に気の良い人々といった様子だが、ここ何年か次男坊に違和感があると娘が言い出した。なんでも別人のようだと。
「だって前はもっとサッパリした顔やったのに、最近の顔は全然違うもん。急成長とか整形とかそういうレベルやないよ。じいちゃんやって言うてたやん」
「…って言うんですけど、そんな違うかなぁって思うんです」
「違うよ。目ェ怖いし。田染さんちに知らん女の人が来たことがあったやん。あそこからおかしいわ」
"知らん女の人"という文言に葉子の可能性を感じた吉光は親子を別室に通し、詳しく話を聞いた。親子いわく"知らん女の人"は少女が次男の違和を訴え始めるよりも1ヶ月ほど前に見かけるようになったらしい。青竹色の着物を着て、田染家の2階の回り廊下の前に立っているのが何回か続き、ある時見かけなくなったと思ったら次男の顔立ちが変わっていたという。
「昔はもっとサッパリした顔だったと思うんです。どこにでもいそうな感じで。でも今は彫りが深くて、目が真っ黒…」
少女の説明を聞きながら、吉光は葉子の目を思い出していた。瞳の部分だけにぽっかりと穴が空いたような、光の無い黒目。
吉光は鬼囲に足を踏み入れ、自らの目で次男の顔を確かめることにした。それにあたり家に連絡し、田染家について調べられないかと聞いてみた。父は「"田染"ちゃあ豊後高田の方の姓やけん、そっちの知り合いにあたってみようか」と言い、それから数日と経たないうちに返答が来た。田染家は豊後高田市の出で、純粋な人間でもあった。
鬼囲に鬼などいないと確信を持った上で、吉光は件の次男坊─田染光典の姿を確かめるべく毎週土曜に鬼囲へ通った。いくら鬼が成り代わったとはいえ、光典は学生の身であったので、土曜は集落の外へ遊びに出るか親の漁船に同乗して釣りでもしているかしてなかなかお目にかかれないだろうと思っていたが、想定よりもずっと早く、3回目の来訪で吉光は光典と邂逅した。
僅かながらも暑さが和らぎ、ツクツクボウシの声が疎らに響く初秋の頃。Tシャツとハーフパンツ、サンダルといったラフな格好に、右手に釣竿、左手にバケツを持った、同じような風体の男が並んで歩いているのに出くわした。こざっぱりとした顔立ちの浅黒い少年と、彼より頭1つ分背の高い、彫りの深い色白の少年。浅黒の少年を「兄貴」と呼んで何やら楽しげに話す色白の少年の目は、穴でも空いたように黒々としていた。
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