第3話 車中にて

鬼囲に戻ってしばらくは酷く忙しかった。転居届を出したり、田染と我が家双方の顔合わせをしたり、婚姻届を役所まで出しに行ったり、集落に戻るにあたって無職になってしまったので光典の扶養に入るための証書を取ったり、身分証やら口座やらの名義変更をしたり。ドラマや漫画を通じて履修してきた『結婚』といえば想い合う男女が教会で永遠の愛を誓うだとか誰かに強制された結婚式の最中に想い人が乱入してくるだとかとにかく式の方ばかりにスポットライトが当てられがちだったが、実際の結婚は気が狂いそうな量の手続きが絡んでくるらしい。幸福な結婚にしたって望まぬ結婚にしたって、ヒロイン達は地獄のような手続きの嵐を乗り越えているわけだ。

私の手続き地獄を光典が他人事として見ていないのは救いだった。私がどこどこでどんな手続きをしなければならないと伝えれば、同行したいからと言って平日にいくつか有給を取ってくれ、車まで出してくれた。

そのうちの初めての手続き─鬼囲から30分ちょっとの所にある市役所へ婚姻届を出しに行く最中の車内で、私は初めて光典とまともに会話をした。


「光典さんってどこで仕事してるんですか」


「漁協ですよ。ところで敬語やめませんか。家族になるんですし」


「ああ、まあ確かに。…ええと、忙しいでしょうに仕事休んでまで来てもらってすみません」


「敬語使ってる」


「あっ」


光典が笑い出した。品良く整列した歯を見せて快活な笑い声を上げる横顔はいかにも普通の若者といった風で、求婚された時に感じた不気味さや警戒心といったものが全て吹き飛んでいった。田染という家も、他の家が大昔からの力関係を気にしているだけで実際は普通の家なのではないかとさえ思った。


「光典さんは、なんで私を嫁にしたいと思ったの」


予てより気になっていたものの聞ききれずにいたことを聞いてみた。光典は進行方向を見据える横顔に笑みを残したまましばらく唸っていたが、私が答えを待って見つめ続けていると気恥ずかしそうな笑い声を上げた。


「なんでかって難しいな。殆ど感覚みたいなもんやし」


「私がよく光典さんちの方を見たら、2階の窓際におった光典さんと目が合ったと思うんやけど。まさかアレ?」


「ん…そうよ。単純と思うかもしれんけど、そうよ。アレ廊下なんやけど、ウチの下の通りを歩きよる紫生さんと目が合うと惹き込まれてさぁ。紫生さんに会えんかと思って、家におる時間はちょこちょこあそこに立っちょった」


「そこから急にウチに来て求婚するのね。しかもすごいタイミングで」


「慌ててたんや。鬼囲の子はたいてい高校を出たら他所に出てってしまうけん、紫生さんも同じように出てってしまったら会えんなるって気づいた日が、ちょうど紫生さんが専門学校の推薦受かった日と同じやった」


「もしかして断られない自信があった?」


「…絶対に断らんとは踏んどった」


光典の口から乾いた笑いが漏れた。

やはり光典は田染家と他の家の力関係や村八分の噂を知った上で私に求婚をしたらしい。遠目に見かけただけの女に惚れ、家の力を利用してまで鬼囲に留めようという光典の行動は、吹き飛んでいったはずの不気味さを呼び戻し私の背筋を寒くした。光典は田染の、鬼の一族の男なのだと改めて考えさせられた。

ただその一方で、鬼囲で1番強力な家の男が権力を行使してまで私を手元に置きたがったという事実に、私の女としての自尊心が高められていくのが感じられて、それはそれで私という人間が愚かしく思えてしまった。

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