第2話 逃げるか戻るか

「あんた、もし光典くんとの結婚が嫌やったらもう帰ってこんでいいけんね」


大分市に借りたアパートへ引っ越す当日、玄関先で母からそう言われた。

半年前に田染光典からの申し出で婚約を結んで以来、父母は私の幼いうちに鬼囲の外へ出なかったことを悔いていた。鬼囲には私の他にも若い女が2人いて、その中でも私が最も年下で、田染家で唯一の独り者である光典と7歳も離れていたので声がかかるわけも無いと踏んでいたのに誤算だったと、何度も話しては頭を抱えていた。


「ウチが村八分にされるかもしれん」


「そんなん気にせんの。まあ田染の人は悪い人やないし、あんたが光典くんと結婚しても良いなら戻ってきたら良いけどさ、まだ若いのに好きでもない人と結婚して、こんな田舎に縛られるなんて人生を自分の娘に送らせたくないやん。それに村八分にされたら我が家も大分に引っ越せば良いんや」


「簡単に言うなぁ」


思慮深いのか能天気なのか分からない母の言葉に私は呆れつつも、母が子の人生についてしっかり考えてくれていることを悟って泣きそうになっていた。

とはいえ、私は光典との結婚が嫌なのかそうでないのか、内心ではよく分かっていなかった。殆ど接点の無い男から求婚をされたことにはこの上なく疑問を抱いているが、そこに嫌悪や拒否感といったものは無い。かといって結婚をして良いとも思っていない。ずっと迷い続けている。

逃げるか、戻るか、何年か1人で暮らせば答えを出せるかもしれないから、とにかく今は進学という直近の進路のことだけを考えていようと思った。




結局、私は約4年後には鬼囲へと戻り光典の妻となった。

専門学校での2年間は殆ど何も考えずに過ごした。新しい友達が沢山できて、焼肉屋のホールでのアルバイトを始めて、バイト先で仲良くなった1個上の男子大学生と3ヶ月ほど付き合ってみたりもして。勉学とバイトと友情と恋愛をぎゅうぎゅうに詰めた20歳前後の女子らしい怱忙を楽しみ、鬼囲へ戻るか否かの決断を忘れこそせねど思案はしなかった。

それが医療事務として大分市内の個人医院に就職した辺りからは光典の「何年でも待つ」という言葉が水濡れした衣服の如くじっとりと纏わりつくようになり、光典は本当に待っているのだろうか、実はもう痺れを切らして私の両親を村八分にでもしてやいないだろうか、といった不安が日々頭を苛んだ。そうすると逃げるか戻るかなどという選択肢は頭の中からすっぽ抜けて、仕事にキリをつけて早く帰らねばと思うようになった。そうして社会人生活が3年目に差し掛かろうとしていたところで、光典との結婚の旨を伝えて個人医院を退職し鬼囲へと戻ったのだった。

腐敗と露でグズグズになった河津桜の花びらがこびりつく山道を走り抜け、約4年ぶりに足を踏み入れた鬼囲は、私が出ていく前と何ら変わらぬ様子であった。私が散々心配していた村八分もされておらず、海岸沿いの集会所に車を停めて父が働いているであろう集落南方の港を覗いてみれば、父は漁師仲間と共にウニを割っていた。実家に戻ってみれば、母が玄関先のプランター群に水をやりながら隣家のヨシ子おばちゃんと世間話をしていた。父にしても母にしても私の顔を見るなり顔を強張らせたが、他の人の目があるからか「おかえり、疲れたやろ」という無難な文句しか出さなかった。

ヨシ子おばちゃんが自宅に戻り、夕暮れ時になってウニ割りを終えた父が帰って来ると、父も母も口を揃えて「なんで戻ってきたん?」と訊いてきた。


「大きな荷物が何個も送られてきたけんアレッとは思ったけど、あんた光典くんと結婚するん?」


「うん、まあ」


「まあって、あんたな。田染の人は気の良い人やけど区長やっちょんけん、地区の行事は全部参加せないかんし、あとしっかりしたお家やけんフラフラ遊びにはいかれんし嫌になっても離婚とかできんで」


「うん、わかっとる」


「大丈夫かいな…」


「他の人にも顔見られちょんしな…もう後には引かれんで」


「うん」


突如として玄関の引き戸を開ける音が響いた。続けて「お邪魔しますよう」という若年の男らしい濁りの無い低声が聞こえたかと思うと、靴を脱ぐ音、廊下をシタシタと歩く音が聞こえた。どこから聞きつけて来たのか、光典が我が家へ上がり込んできたようだ。

やがて居間と廊下を隔てるガラス障子戸が開けられ、仕事帰りらしいYシャツにスラックス姿の光典が長身を僅かに屈めて居間の戸を潜ってきた。


「急に来てすいません、紫生さんが帰ってきたって聞いたんで」


愛想程度の薄い笑顔を浮かべて、光典が私のすぐ目の前で膝をついた。


「紫生さん、おかえりなさい」


「…お待たせしてすみません。不安にさせてしまいましたね」


「とんでもない。俺は紫生さんが戻ってくると信じてましたよ」


光典の口ぶりは私を信じていたというより、私の性格を鑑みた上で戻って来ると踏んでいたかのようだった。恐らく光典は村八分の噂や吊し上げにされた先人の伝承を知った上で私に求婚したのだろう。2年に渡って抱え続けた不安も見透かされている気がして背筋がゾクリと寒くなった。

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