鬼と呼ばれたその人とは

むーこ

第1話 求婚

大分県の南東に鬼囲おにかこいと呼ばれる、海と山に挟まれた小さな集落がある。元々は別の名前で呼ばれていたそうだが、何百年という大昔に強大な力を持った鬼の一族が住み着き始め村を牛耳るようになった為、よその集落から鬼囲と呼ばれるようになり、いつしか地図上の表記までもが変えられてしまったといわれている。

鬼囲の集落で生まれ育った私は幼い頃から、鬼の末裔だとされる田染たしぶ氏が住む高台の日本家屋を見てきた。クヌギやらコナラやら松やらが緑色の葉をもっさりと繁らせた小山のてっぺんから、硝子戸に守られた外廊下のある2階部分が出っ張って、時々そこに誰かが立って外を眺めているのが見えた。

外廊下に立っている人は白髪頭の老爺であったり、着物を着た初老の女であったりと様々な人がいたが、時々天井に頭が当たりそうなほど背の高い若い男が立っていることがあって、この男だけはどういうわけか、私と目が合うとギョロリとした大きな目でじっと見つめてくるものだから、私は「変な奴だなあ」と思って目を逸らしていた。




私が18歳になった年、この変な奴から突如として求婚をされた。

集落のそこかしこが紫や桃色の秋桜に彩られていた秋の中頃だった。大分市にある経理系の専門学校の推薦入試に合格したことを知らされた日で、受験戦争が早めに終わり卒業まで遊んで過ごせるようになった喜びで胸を躍らせながら暮れなずむ空の下を帰宅した矢先、神妙な面持ちの母から客間へ連れてこられたと思ったら、同じく神妙な顔をして下座に胡座をかいている親父の向かいに奴が正座をしていたのだ。


「突然すみません」


母に促されて父の隣に座ると、奴が恭しく頭を下げてきた。スッとした面長の輪郭に真一文字に引き結んだ薄い口、高い鷲鼻。いつも印象に残っていた目は近くで見ると洞穴でも空いたかのような黒一色。近くで見た奴の顔は世界史の資料集に載っているシュメール人の像を彷彿とさせて「鬼の一族とはシュメール人の末裔か何かではないのか」などと考えてしまった。


「あ、じゃあ紫生しおが戻ってきたところでな、光典くん、さっきの話やけど…何か間違えちょらせんか」


「いいや、何も間違えてはおりません。紫生さんと結婚させて頂きたいのです」


「えぇぇ…?」


『結婚』の2文字を聞くなり私は困惑し、つい父を見た。色黒の肌に皺を寄せ怪訝そうにする父と目が合った。父も酷く困惑していたのは、目の前の奴─光典と私に接点が無いことよりも、田染家からの求婚は必ず受けなければならないことを知っているからだろう。

鬼囲では令和である現在においても、鬼の一族である田染家の力が強い。区長は代々田染家が務め続けているし、田染家の言うことに背けば村八分にされるという噂もある。交際や結婚に至っては物騒な言い伝えがあるもので、大昔に田染家の男に娶られた女が、真に想う相手と駆け落ちを図ったものの、翌朝に集落の外れにある大きなクヌギの枝に吊るされて死んでいたという。

そういう伝承があるので女児を産んだ親はたいがい娘が幼いうちに何か口実をつけて集落を離れていくが、私の両親においては「ウチの子に限って求婚されるなんてこと無いでしょう」と楽観的に構えていた。そうしたらこれである。

光典が鬼囲に住まう人々の力関係を知っているのか知らないのか定かでないが、高校卒業後の進路が確定した矢先に求婚されても素直にハイ謹んでお受けしますとは言い切れない。そもそも特別器量が良いわけでも家柄が良いわけでも何か関わりがあるわけでもない私を嫁に貰おうとするその意図が分からない。


「あの、私、推薦受かって…」


私はスクールバッグから合格通知を取り出し、斜め後ろにいた母に手渡した。A4程度の紙に印字された喜ばしいはずの報せに母は「あら…」と引きつった顔で目を通す。


「いやぁ、な、紫生が女優ばりに美人やったらもしかして…なんて思って準備しちょったかもしれんけどな、見ての通りおいちゃんとおばちゃんの血をしっかり引いちょるけんな…」


「顔がどうこうで惚れたわけじゃないですが紫生さんは美人です」


「あら、そら悪いこと言うたな…ただまあ、結婚かぁ…」


「すぐに結婚してくれとは言いません。せっかく専門学校に受かったのに。婚約だけでもして頂ければ何年でも待ちます」


「えぇぇ…?」


私と父母はまた顔を見合わせた。

それから30分は同じようなやり取りを繰り返したが、光典が私を妻にしたいと言う以上は我が家も断ることができず、結局婚約だけしてしまった。


「ありがとうございます」


光典が畳に手をつき、再び恭しく頭を下げた。そうして徐ろに顔を上げる時の、ほんの一瞬だけ見せた表情に私は戦慄した。

光典は薄い口を吊り上げて、気味の悪い笑みを浮かべていた。

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