第11話 夫は別人
ナギサちゃんの家は鬼囲の北部の県道沿いにある。鬼囲に数多ある四角い2階建てのコンクリート住宅の中でも一際大きくて築年数も新しい。玄関と一体になったガレージにはナギサちゃんのものであろう軽ワゴンが1台と、そばに立てられた物干し台に女性モノの黒いダイバースーツと薄紫のシュノーケル、同じく薄紫の足ヒレが干されている。
私がこの家を訪れる時というのは決まってナギサちゃんと遊ぶ時で、家に上がったらおじさんとおばさんへの挨拶をそこそこに2階のナギサちゃんの部屋へ駆け込んで、漫画を読んだり芸能人の話をしたりスマートフォンでオススメの動画を見せ合ったり、そういったことを高校卒業の寸前までやっていた。光典から求婚されたことも遊びのついでに話したが、その時のナギサちゃんの驚きようは大変なものだった。思うに、ナギサちゃん自身も自らが光典の妻になるものだと踏んでいたのではなかろうか。
成人して、私が光典に娶られて、その上で訪れたナギサちゃんの家では、ナギサちゃんの部屋ではなく居間に通された。ベージュのカーペットの上に長方形の木製テーブルがあり、その周辺を囲む本棚やらサイドボードやらTV台やらといった家具の上には、薬箱だとかリモコンだとか文房具が詰め込まれたペン立てだとか生活に必要な小物が雑多に並べられている。1番TVに近い上座はおじさんの特等席だが今は漁に出ている為に無人で、テーブルの上に『わかば』と書かれた煙草の空き箱だけが残されている。家中駆け回っていつも忙しそうにしているおばさんも、今は仕事に出ているのか声の1つも聞こえない。
「お父さんまたゴミ置きっぱや。紫生ちゃん、
煙草の空き箱をゴミ箱に放りながらナギサちゃんが言った。とりあえず出入口から1番近い長辺に座ると、吉光と呼ばれたブロンドの男が私の真向かいに座った。
「あー…お宅様が田染の嫁さんで?」
「え、はい」
「…ご主人は今、在宅ではない?」
「はい、仕事に出てます」
吉光の質問に答えながら、つい彼の顔を凝視した。瞼が窪んでギョロリとした目と、筋の通った高い鼻と、薄い口唇。男前だが、パーツの1つ1つを見るごとに光典を思い出す。吉光も光典と同じ"シュメール人を思わせる顔"なのだ。
テーブルの上で頬杖をつく吉光の左腕の袖口から、数珠のような黒いブレスレットがチラリと見えた。ブロンドヘアと黒いスーツ姿からもう薄々勘づいていたが、母の言っていた男はこの人だろう。
「突然ごめんなぁ。これ食べて」
居間と隣接したカウンターキッチンから、ナギサちゃんが500mlペットボトルの緑茶を2本と数種類の和洋菓子が入った菓子盆を持って吉光の隣に座った。菓子盆がテーブルに着地するなり吉光が「いただきます」と言って手を伸ばしソフトクッキーをつまみ上げる。
「ナギサちゃん、この人どなた?」
「あぁ〜この人は…」
「
お前のような僧侶がいるか、と目が痛くなるようなブロンドヘアを薄目で見ながら思ったが、服装頭髪の自由を謳う時代が僧職界隈にも訪れたのかもしれないと思い直した。
それはそうと"熊埜御堂"といえば宇佐に多い苗字だ。宇佐には鬼のミイラが祀られている寺がある。もしかすると吉光はその寺の僧侶で、田染家に関わる何らかの用事でこの鬼囲に通っているのでなかろうか。
「あ、宇佐の出身ではありますが鬼のミイラは関係ありませんので」
考えていることを見透かされたのかと思った。
しかし鬼のミイラは関係無いにしても、私が呼ばれた辺り吉光が田染家に関わる用事があるのは間違いない。それも田染家そのものには知られてはならないような用事だ。
良い話か、悪い話か─外を滑空するトンビの鳴き声がハッキリと聞き取れる程に静かな部屋の中で、時計の音と心音がシンクロするのを感じながら、ソフトクッキーを咀嚼する吉光を見つめた。
間もなくソフトクッキーを飲み下した吉光が伏し目を右へ左へと動かしながら、締まりの無い低声で「どこから話そうかなー…」と呟いた。
「…結構長い話ですか?」
「長いしややこしいかもしれませんね」
視線が思わず壁の振り子時計に向いてしまった。針は14時07分を指している。
田染家を出たのが昼食後の13時半。実家に帰るという名目での外出なので義母から「ゆっくりして
「…なるたけ手短にできませんか」
「あー…うーん…まあいいや、アレから話しちゃえ。ご主人は田染光典じゃありません」
「は?」
驚きのあまり声が裏返った。
何かを聞き間違えたのかと思って「もう1回良いですか?」とお願いしたら同じことを言われた。意味がわからず、困惑のあまり隣のナギサちゃんに目を向けると気まずそうに「ごめん」とだけ言われた。
「え…?どういうこと…?え、あの、私、別人と結婚したってこと?」
「ええ、まあそうです」
「えー…あ、でも皆『光典』って呼んでますよ」
「ああ、はい。光典のフリをした鬼ですんで、そりゃあね」
当然のことのように話されて、私の口はロクに言葉も紡げず「えぇ…?」とのみ漏らした。
光典が言い伝えなどでない本物の鬼であるという可能性は疑ってきた。裕也の件といい奇習探検隊の件といい、あまりにも不自然なタイミングで死人が出た上に、裕也のことなど名前しか知らないはずの光典が裕也の死に言及したから。
ただ疑いを抱いたのは田染家が鬼の末裔と呼ばれているがゆえである。光典が本物の鬼なら田染家自体が本物の鬼で、そうすれば"光典のフリをした鬼"なんて話は成り立たなくなるのではないか。
私の困惑を察してか、吉光が「あぁ順番間違えたな」と呟いた。
「えーと…あー…田染家の鬼の伝承というのは、鬼囲の先住民が作り出した噂話でしかないんです。田染さん、ルーツは豊後高田の方でして。豊後高田っちゃあ鬼で有名な
「なんでそんなこと知ってるんですか?」
「調べたんで。ここは歴史的に鬼もクソも無いハズの地域だというのに、何百年も鬼に支配されていると聞いたので」
「歴史的にって、県内そこかしこに鬼の話があるんで不思議なことは無いと思いますけど」
「本当に田染家が鬼であれば私どもが既に把握していないとおかしいんですよ。私の家はこの大分県内に散らばる鬼の種族の元締めですので」
この男も田染家と同じ鬼の末裔らしい。口だけなので信じられはしないが、話を聞き続ける。
「結局ただの人間じゃねえかって話で終わりかけたんですけど、念の為に見に来てみたら…まあ、いましたよね。人間ヅラして居着いてる奴が」
「見に来ただけで主人が鬼だと分かった…ってことですか?」
「ええ、はい。田染家の中であまりにも顔が違いすぎますし。しかもあの彫りの深い面長、異様に大きく切り開かれた目と、その割に光を反射しない洞穴のような瞳。鬼の種族においては最も厄介な、人間を憎悪し滅ぼさんとしていた女の血をしっかりと受け継いでいます」
思わず席を立ち、吉光とナギサちゃんから「待って待って」と引き止められた。吉光の口から出された登場人物があまりにもフィクション臭いので詐欺か宗教の類を疑ってしまった。
確かに光典は田染家の誰にも顔が似ていない。義父も義母も凹凸が少なくペッタリとした所謂"弥生系の顔"で、克典も両親の遺伝子をしっかりと受け継いだこざっぱりとした顔立ちをしている。田染家の仏間に飾られた先祖の写真も皆似たようなもので、光典だけが陰影のハッキリとした西洋風の顔立ちなのだ。まるで他所の子供をしれっと混ぜたような。
しかし人間には隔世遺伝というものがある。たとえ光典が直近の家族と似ていなかろうと、田染家の先祖に1人でも彫りの深い人がいれば光典だけが彫りの深い顔でもおかしくない。
次にフィクション臭いことを言ったら今度こそ帰ろうと思いながら腰を下ろした。
「で、主人が鬼だったところで、私にどうしろと?」
「ナギサから小刀を渡されてますよね?それでグサッといって下さい」
私の脳裏に、祝言の日に渡された白鞘の小刀が過った。用途が分からないし不気味なので衣装箪笥の奥に押し込んでしまっていたが、アレは光典を殺せというメッセージを込めて渡されたものらしい。随分と物騒な嫁入り道具だ。
しかし光典が本当に厄介な鬼の女の息子だったところで今のところ私にも田染家にも特に弊害は無さそうだし、別に刺す必要は無いのではないか。元彼は殺されたが。
今度に私が見せた困惑は察してくれなかったようで、吉光は菓子盆を漁りながら1人で話を続ける。
「鬼というのは頑丈でね、普通に煮るなり焼くなりするだけじゃ死なないんですよ。ナギサが渡した小刀の柄と鞘は魔除けの効果を持つとされる
「いや、あの、あの、あの。話を進めるのやめてもらっていいですか。旦那を刺す意味が分からないんですけど」
「え?お宅様って光典から結婚を強制された身では?」
「ほぼそうですけど、だからといって不満は無いです」
「しまった、これも計算外だ」
吉光の端正な顔が歪んだ。
彼の口振りからするに光典を、光典を名乗る鬼とやらを刺し殺す計画について、吉光にとって計算外なことがいくつかあったらしい。
「まあいい、殺す殺さないに関わらず聞きたいことが山とありますんで、ちょっとついてきてもらいましょうか」
そう言って吉光が立ち上がるのにつられて自然と立ち上がってしまった。時間は14時27分。風呂焚きは諦めることにした。
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