第9話 ふたり、さんにん

裕也の件からは何も起きないまま1ヶ月が過ぎた。私が薄情なのか、人間というものがそういう風にできているのか分からないが、しばらく平穏な日々が続くと恐怖心や猜疑心といったものはある程度薄れてくるようで、怪物のように恐れていた光典と普通に接することができるようになっていた。もう普通に生活さえできれば光典が本当に鬼なのかどうかとかいう話はどうでも良く、彼の手が触れようが、何かの拍子に身体がぶつかろうが気にもならない。

そうすると夜の営みにも変化が起きた。

ある夜、布団に横たわってスマートフォンで動画を見ていたら光典から覆いかぶさられ、あのシュメール人のような目で見下ろされた。照明が逆光になって光典の顔色は窺えなかったが息遣いは上気している人のそれで、祝言から2ヶ月以上も"初夜"に至っていないことがそろそろ我慢ならなくなってきたのだろうと察せられた。


「紫生さん…ごめんな、ごめんなぁ」


吐息混じりの声で謝りながら、Tシャツの裾から手を突っ込んでくるのを、何と思うことも無かった。1ヶ月前までの自分が同じことをされれば待って待ってと声を上げて離れを飛び出しただろうに、今は何をする気も起きず、腹から胸にかけて滑る光典の手をそのまま受け入れている。


「嫌やったら言って…」


私は何と答えるでもなしに光典の顔を見つめ続けた。以前何かのネット記事で『女を抱こうとする男は覚悟を決めたような目をしている』と読んだことがあるが、今視界のど真ん中にある光典の目こそまさにそういう目だった。

しばし光典を見つめていると、私の様子を合意と受け取ったのか、胸に被さっていた手が動き始めた。同時に啄むような口づけもされたが、やはり何とも思わなかったのでそのまま続けさせた。その後は脱がされても"本番"をされてもやはり何とも思わず、全て終わった頃にはうっとりと微睡む光典の腕に収められることに妙な安心感を覚えて、そこそこ夫婦らしくなったな、と思った。




ある土曜日、私は深夜の3時から光典と一緒に、田染家が氏子を務める天神様の掃除をすることになった。

集落の北側、県道から網とトタンに囲われた畑地の間を通って山へ入り、何十段という長い石段を登って辿り着く天神様。いつでも鬱蒼としていて近寄り難い雰囲気を出しているが、毎年の正月にはここで田染家による振る舞い餅つきが行われるし、何らかの試験を控えた住人はここで合格祈願の為の参拝をする。そういう鬼囲の人々の暮らしにしっかりと根付いたお社だからこそ、こまめに掃除をして綺麗に保っておかねばならないと光典は言う。

とはいえ私が天神様の掃除について知らされたのはこの日、光典に叩き起こされてすぐだ。前日までは田染家の誰の口からも天神様の話題など出なかったので些か怪訝に感じたが、やけに張り切った様子の光典を見ると何も言えなくなったので、眠い目をこじ開けてついて来たのだった。


「俺は外の方やるけんさ、紫生さんは中の方をお願いします。箒ではわいて雑巾かけて、あと気になるところをちまちまと」


そう言うと光典は首にタオルをかけて社の裏へ回ってしまった。

この時、暦の上では6月に突入し日中は少し家事をしただけで汗ばむような気候になっていたが、深夜から未明にかけてはまだまだ空気が冷たく、風でも吹こうものなら身震いをする程の寒さに襲われる。光典が率先して風の吹きつける外での作業を選んだのは、せめてもの気遣いということで良いだろうか。とはいえ社の掃除ぐらいならもう少し日が昇ってからでも良い気はするが。

私は怪訝さに首を捻りながらも、光典から寄越されていた箒を片手に社の引き戸を開けた。いまだ星が瞬いているような空の下において、社の中はそこだけ別世界であるかのように暗澹としている。懐中電灯を頼りにして一歩中へ入り、私の頭より少し高いところに垂れ下がった紐を引けば、ブウンという虫が飛んでいるかのような音を立てて蛍光灯がその身を白く光らせる。

酸化によって白っぽく変色した壁や床を見回しながら、私は自分が天神様の中を見るのが初めてであることに気づき妙な感動を覚えた。

鬼囲の天神様は参拝だけなら自由だが、氏子以外の人間が社殿の中に入ることは固く禁じられている。幼いうちに「中に入ったら鬼のご馳走になるよ」などと脅され、それでもなお入ろうとすれば大人からとんでもない剣幕で怒られるので、好奇心旺盛な人でも天神様にだけは近寄ろうとしなくなる。

しかし、いざ内部を見ると出入口の上に絵巻の入った額縁と、奥に小さな格子戸のある祠と思ったよりも簡素で、子供を脅してまで遠ざけたのはここを管理している田染家のことが怖かったんだろうな、と思いながら私は掃除を始めた。

一通りのゴミを掃き取って、床と壁を雑巾で拭く。私の知らない間に田染家の誰かが定期的に掃除をしているのか、目立ったゴミや汚れは無い。

そうして社殿の大部分を綺麗にした後、今度は祠に取り掛かろうとカンヌキで封じられた格子戸を開け、思わず「うえっ」と漏らした。祠の中は細長い注連縄がバリケードの如く無数に張り巡らされていて、奥に祀られているであろう物が一切見えない。誰がどう見ても異様だと感じるような光景だ。掃除もしにくい。

私は一度社を出て、軒下の草を毟っている光典を捕まえた。


「祠って当たらん方が良いの?」


「祠?あぁ、注連縄が邪魔なんやろ。取って良いよ。はい、鎌」


「取って良いの?何か封印してるみたいやったけど」


「良い良い。どうせそろそろ付け替え時やし、取っといてくれたら俺が仕事帰りに新しいの買ってくるけん」


「えー…注連縄ってそんなんで良いんや」


「そんなんで良いのよ。まさかイチから編むと思いよったん?信心深いな」


「別に信心深いんじゃないけど…」


深夜3時と思えない程に快活な光典の笑い声を背にして、私は社の中へ戻り、祠の前に立った。

右斜め、左斜め、横。黄ばんだ紙垂が垂れ下がった無数の注連縄の中から、適当な1本を掴んで引っ張って鎌を振り下ろした。縄は細い割に頑丈で、何度か振り下ろしてやっと1本が切れた。

同じ要領で他の注連縄も切った。2本、3本と切るにつれて奥に祀られているものが顔を出し、残り7、8本というところでようやく全貌を覗き見ることができた。

祠の中で封じられていたのはミイラ化した人の首だった。古さびた紫色の座布団に乗せられたそれは、額から瘤のような2本の角が出っ張っている。些か気味は悪いが鬼の伝承が残る地域らしい物といえばらしい物だ。


「注連縄取ったかぁ」


全ての注連縄を切り終えたところで、背後からかけられた声に肩がすくんだ。振り返ったらそこにいたのは当たり前ながら光典だったが、何が可笑しいのか愉快そうにケッケッケッと不気味な引き笑いをしながら私の隣に来た。


「おお、取れたやん。良かった」


首のミイラを前にした光典の顔は満足気に見えた。祠の掃除はまだ始めていないのに、やることは全て終えたと言わんばかりの顔でミイラを覗き見ている。

もしかして光典の目的は掃除でなく─床に散らした注連縄に自然と目が向いた。解いてはいけない封印を解いたのではないか、という懸念が脳内を埋め尽くす。


「紫生さん、付き合ってくれてありがとうな」


不自然なタイミングで感謝の言葉をかけられたかと思うと、肩を抱かれ引き寄せられた。顎を掬い、意味ありげに見下ろしてくる伏し目が信じられない程に艶っぽくて目が離せない。


『中に入ったら鬼のご馳走になるよ』


遥か昔に聞いた戒めが、誰の声でとなく思い出された。

鬼に食べられる─恍惚の為に抵抗もままならず、右手は握っていた鎌を取り落とし、左手は力無く垂れたまま、目の前にいる人の形をした鬼に食われることを待ったが、次の瞬間に見舞われたのは額に一瞬だけ与えられた軽い口づけだった。


「後は俺がやるけん帰って良いよ。眠いやろ」


持っていた雑巾を奪われ、祠の外壁を拭く光典を呆然として眺めた。熱に浮かされたように頭が熱く、気がおかしくなりそうだったので「ありがとう」とだけ声をかけて私は天神様を出た。

石段を駆け降りて県道まで出ると、冷たい風に吹かれてか幾らか冷静になれた。辺りは疎らに立っている街灯に照らされた範囲だけがハッキリと見える程度には暗く、頭を上げればいまだ星が瞬く濃紺の空が広がったままで、人が活動する音も、日中には嫌と言うほど聞こえるトンビの声も今は聞こえない。世界中で生き物が自分だけになったかのように感じられる。

やっぱり光典が掃除を終えるまで留まれば良かったか─祠を雑巾で拭く光典の背中を思い出したら、また顔が熱くなった。結婚を申し込まれて約4年半、結婚して2ヶ月で、光典がようやく私の中でまともに"男"になったのだ。

照れ臭さで叫び声を上げてしまいそうなのを堪えながら、私は田染家までの道を早足で進んだ。一度ちゃんと寝て、スッキリとした頭で光典と対面したらもう少し冷静になっているかもしれないと、額に汗が滲むのも気にせず突き進んだ。

田染邸の下にある集会所へ差し掛かったところで、見慣れないSUVが南方の山から降りてくるのを見た。SUVの中には私と歳の変わらなさそうな男が2人いて、助手席に座っている赤髪の男が私を差すと、運転手の男が私のすぐ隣まで車を寄せた。


「すいません、ここの人ですか?」


窓を開けながら尋ねてくる赤髪の男に警戒しながらもハイと答えると、続けて男が「僕ら動画配信やってて」と言った。


「奇習探検隊って言うんですけど知ってます?結構有名なんですけど」


「いや…」


「良かったらこの機会に覚えてね。で、いま僕ら、ここ鬼囲の奇習を調べてて」


「はあ」


「ここの結婚式がすごい変わってるって聞いたんで何か知らないかなって」


「はあ」


田染のことだと確信したが答えなかった。この何を考えているか分からない集団を相手に、下手に「知ってます」とだけでも答えたら、根掘り葉掘り聞かれた挙げ句に妙な尾鰭をつけて全世界に発信されかねない。


「実は資料も貰ってて…ちょっと見て欲しいな」


「はあ」


どこかで逃げようかなぁ、と思いつつ赤髪の男が右手に携えていたスマートフォンを操作するのを見守っていると、不意に男が「あ」と漏らした。


「あの、動画なんですけど、このお嫁さん…」


男が差し出してきたスマートフォンの画面を見て思わず眉を顰めた。

画面には光典と私の祝言の様子が映されていた。黒い布で頭を覆った光典と、その隣で強張った顔をしている私が画面の真ん中に大きく映っている。

動画の撮影者には心当たりがあった。祝言に参加していた友人の里緒奈が同じ動画をSNSに上げていた。身内だけの繋がりだからと当時は気にしていなかったが、SNSというのは特別に設定でもしていない限りは赤の他人でも投稿を見ることができるのだ。

私は震える喉から「知らない」とだけ絞り出して車の側を離れた。すると赤髪の男が降りてきて、私の腕を掴んできた。


「待って待って!」


「いや!ちょっと!なんで掴むんだよ!」


男の手を振り払いながら叫んだ。

以前にナンパに遭いかけた時はたまたま光典が通りかかったので難を逃れたが、今回も光典が通りかかってくるとは限らない。恐らくまだ天神様の掃除をしているか、ようやく終わって石段を降りようとしているところだろう。自分1人で何とかしなければならない。


「ごめんごめん!あっ!ていうか、こんな時間に何してるの!?」


「良いだろ別に!」


「まだ夜中だよ!?」


「神社の掃除だよ!もう来んなよ!」


力の限り怒鳴りつけると、男はごめんごめんと繰り返しながら車へ戻った。その間際に「神社あるって」と聞こえたので、次は神社に向かうであろうことが予想された。

神社に行けば次に絡まれるのは光典だ。もし光典が掃除を終えて退いていたとしても、祠のミイラを見られればそれはそれで変な動画を発信されかねない。


「どうしよう…」


私はしばらくその場に蹲って唸ったが、どうしようもないと諦めトボトボと田染邸に戻った。義父母や義兄一家が寝静まったままの母屋に入って台所で水を1杯飲み、汗ばんだ身体をウェットティッシュで拭いてから敷きっぱなしの布団に潜り込み、重くなってきた目蓋をゆっくりと閉じた。




次に目覚めた時には、背後からTシャツの中に2本の大きな手が突っ込まれていた。いつも起きる時間よりも空がずっと明るく、スマートフォンを見ると朝の8時を回っていたので慌てて起き上がろうとしたが、手の主である光典が「何も言われんって」と言ってしがみついてきたので、そのまま大人しく光典の腕に収められた。


「紫生さん、夜中に神社の掃除したのは内緒よ」


「な、なんで?」


「夜中にしたとか言ったら面倒そうやん」


「内緒にするくらいなら昼前とかにやれば良かったじゃん」


「せっかくの土曜やけん面倒事は早めに済ましたいの」


そうやって言葉を交わす間、光典の鎖骨辺りに当たった鼻が、Tシャツ越しからでも漂う男の匂いを感じて顔が熱くなった。赤面した顔を見られれば何か言われそうなので、身体を密着させて顔が向き合わないようにした。


「光典さん、変な人達おらんかった?」


「奇習探検隊おった。ようこんな所まで来たわ」


「知っちょるんや。何か聞かれんかった?」


「俺と紫生さんの結婚式の動画出されたけん『ギリ奇習やない』って言った」


「ギリって何やねんギリって」


「絶対使われるわ。俺の美貌が全世界に発信されて芸能事務所の目にとまるのも時間の問題や」


「ポジティブすぎやろ」


頭上に光典の引き笑いを聞いたところで腹が減ってきたので、光典を引っ張り起こして2人で母屋へ移った。

母屋の居間では義母と保奈美ちゃんが脱水済の洗濯物の皺を伸ばしていたが、2人とも浮かない顔で「可哀想やねぇ」などと話し合っていた。


「ああ光典、紫生ちゃん、起きたんな」


「おはようございます。何かあったん?」


「山ん中で落石があったみたいでなぁ、車が潰されちょんのや」


「また他所の人よ。友達連れの若い人でな。可哀想に、あそこ通らんかったらなぁ…」


深夜に出くわした男達を思い出して背筋がスーッと寒くなった。

ふと光典に目を向けてみた。「あらまぁ」と呟く光典の顔は眉を八の字にして、如何にも哀れんでいますといった風だったが、とりあえず飯を食わねばと2人で台所へ行くと、途端に口許を隠して「アレそうよな」と言い出した。


「やっぱそうかな」


「そうやわ。可哀想にな」


隠された口許からクックックッと含み笑いが聞こえた。

ああコイツがやったわ─そう思ったが、裕也の時ほど恐ろしくないのは私が慣れてしまったのか、それとも配信者の男達に絡まれて嫌だったからか。

何はともあれ奇習の調査の名の下に、私や光典の顔が全世界に晒されることは無さそうなので良かった。




後日から2週間程、奇習探検隊とやらの動画チャンネルを確認してみた。3日に1回のペースで動画が上げられていたのが、彼等が鬼囲に来る前日に上げられた動画を最後にしてパッタリと無くなっていた。

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