第5話 ひとり

「紫生ちゃん、そこのみりん取ってくれんな」


「はーい」


「あらもうマヨネーズが無い。光典さんに買って来てもらうか」


6畳分はあろうかという台所には、忙しないような、しかしどこか余裕があるような女達の声が飛び交う。

田染家では男が外で働き、女が家事をするという昔ながらの家庭のあり方を重んじているようで、私は祝言を上げた翌朝からもう田染の女衆として台所に立つようになった。

田染邸に住んでいるのは私を含めて7人。義父と義母、長男の克典とその妻である保奈美ちゃん、2人の息子である小学生の斗真。次男の光典とその妻である私。昔、窓越しに見ていた白髪頭の老爺は光典の祖父らしいが、私が大分に出ていた時期に亡くなったらしい。

義父と克典は鬼囲の中で沿岸漁業をしており、光典だけが市街の漁協に勤めている。男衆は4人とも朝早くに仕事なり学校なりへ出て、義父と克典と斗真は15時過ぎに、光典は18時頃に帰ってくるので、彼等の動きに合わせて女衆の家事も行われる。朝一番に集会所へ新聞を取りに行くのと、朝食と大人組の弁当の準備、洗濯、掃除、風呂と夕食の準備、そして寝床の準備。他にも家のそばに畑を設けているので、そこの手入れや収穫物の選別もしなければならない。

これだけ挙げてみるとSNSで議論の的にされがちな九州のイチ家庭の有り様に見えるが、細かいところを見てみると田染家はかなり緩い方だと感じる。食事においては朝夕を家族全員で摂る分しっかりと作るが、昼食は女衆だけなのでレトルトなど簡単なものに頼れるし、そもそも献立については義母が決定権を握っているので男衆から口喧しく言われることが無い。女だけが余りや端っこを食べさせられるなんてことも無い。盆や正月のような親類一同が集まる行事なんかオードブルか仕出しを予約して、後は細々としたものを1品か2品作るだけだという。

掃除と洗濯だって1人でさせられるのでなく女衆が手分けして行うし、畑の収穫物だって生産者として義母の名前が印字されたものを義父か克典が山向こうの直売所まで納品しに行ってくれる。

嫁いびりなんてものも無い。それどころか誰もが優しくしてくれる。"鬼の末裔"と呼ばれる家は、その伝承や区長という肩書きから想像されるほど息苦しい家では無いらしい。




田染家に馴染んでいく一方で、光典との夫婦としての営みは容易にいかなかった。

田染家の邸宅には、1本の廊下で繋がれた離れが存在する。基本的な生活は大きな母屋で営むが、新婚夫婦は子供ができるまでの期間を六畳間とトイレがあるだけの離れで寝起きする決まりになっているらしい。

私と光典も祝言の後にこの離れへと通され、光典の母の指導の下で床盃と柿の木があるか無いかの問答をした。そうして2人きりになっていざ事に及ばんとしたが、どうも私の方が決心がつかず光典から「しょうがない」とフォローされて初夜はお預けとなった。

それから毎日のように離れで寝起きをしたが、やはり決心がつかず、1ヶ月も床入りをせぬまま過ごしてしまった。さすがに1ヶ月も経つと光典の方でも何か焦りを覚えるようで、ある晩、布団の上に胡座をかいてスキンケアをしていた私の背にとりついて「紫生さん、今日はもう寝るの」と囁きかけてきた。


「光典さん、ごめんなさい。今日もちょっと」


「いいよ、大事なことやけんゆっくりな。ただ何か気がかりがあるんなら、どうにかしちゃりたいなぁ…」


「…ごめんなさい」


背中にどっしりと体重をかけられ、視界の右側から波打った黒の長髪がダラリと垂れ下がってくるのが見えた。乳液の蓋を閉めようとする手が止まり、今にも押し倒されるとか服の中をまさぐられるとかいうことをされるような気がして身体が強張ったが、一向に手は出されず、しばらく経つと光典が「おやすみ」とだけ言って布団に潜り込んでしまった。

間もなく穏やかな寝息が響き渡るようになると、辺りの空気が一気に軽くなったような感覚を覚え、自然と深い溜め息が出てきた。知らず知らずのうちに緊張していたらしい。

床入りに直面して、私は大して好きでもない男と夫婦になるということをかなり甘く見ていたのだと痛感した。私を想うようになった経緯や、求婚の時に一瞬だけ浮かべた気味の悪い笑みや、祝言の後にハルちゃんとナギサちゃんから小刀を渡された件など、光典という男に異様さを覚えた出来事はいくつかあれど、日常で関わる分には至って普通の青年で特別嫌悪を抱くような人となりもしていないので、共に暮らしていればそのうち好意も芽生えてくるだろうと踏んでいた。しかし実際芽生えたのは家族としての最低限の愛情ぐらいなもので、身体の大事なところへの侵入はいまだ許せなかった。

強制結婚が当たり前だった時代の人々は、よく思い入れの無い相手との同衾を受け入れられたものだ。似たような境遇にあったであろう先人達に思いを馳せながら枕元のスマートフォンを取りSNSを開いてみるとダイレクトメッセージが1通届いていた。どこぞのカフェの外観をアイコンにした送り主は、私が専門学校生の時分に付き合っていた男子大学生だった。


「裕也…」


意図せずして元彼の名を口に出してしまった。私はすぐさま光典に目をやったが、光典は相変わらずスウスウと品の良い寝息を立てるだけで、私の口から漏れ出た知らない男の名は聞いていないようだった。

私はホッと息をついて、裕也からのメッセージを開いてみた。


『政略結婚てまじ?実家行こうか?』


裕也は私の結婚を誰かから聞かされたようだが、何か妙な解釈をしてしまったらしい。『来んなよ』とでも返そうかと思ったが、下手に何か返すと本当に鬼囲まで来てしまいそうなので、私は無視を決め込んでさっさと眠りについた。




翌日は土曜日だった。義父と克典はいつも通りに漁へ出ていき、斗真は集落内にある友達の家に遊びに行った。光典は平日より3時間は長く寝た後、だるそうな顔で母屋へと現れた。それから朝食を乗せた盆を台所から持ち出すと、居間に腰を落ち着けたついでにTVを点けた。ちょうどローカル局の情報番組が始まる時間で、女衆は脱水したばかりの洗濯物を居間に持ち込み、TVを見ながら皺を伸ばした。


『まずは県内のニュースをお伝えします。本日明け方、津久見市四浦の山中で男性の遺体が発見されました』


女衆が揃って「ウソ!」と声を上げた。

間もなくTVに映し出された現場映像には、鬼囲からそう遠くないところにあるガソリンスタンドが映っていた。


「やだ怖いなあ」


「この辺の人やなさそうやな。なんでわざわざこんな所に」


義母と保奈美ちゃんが気の毒そうな顔で囁き合う隣で、私は続けて読み上げられた遺体の素性に、伸ばしていたタオルを落としそうになった。


『遺体は大分市の会社員、橋本裕也さんと見られており、ロープで首を吊った状態で死亡しているのを近くのガソリンスタンドの従業員が発見し警察に通報したとのことです』


間違いなく元彼の名前だった。「えらい遠くから来たなあ」と驚く保奈美ちゃんの声を遠くに感じながら、私はTVを見続ける光典の背中を見た。


「かわいそうになぁ」


光典の声がやけに弾んで聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る