第6話 疑い
山中で死んでいたのは本当に裕也だった。一時は同姓同名の別人かもしれないと思ったが、ニュースを見てから3日と経たないうちに裕也の友人である遥斗からSNSを通じて電話が来たことで確信に変わった。
水曜日の昼前、庭で洗濯物を干していた矢先だった。『遥斗だけど』という簡潔すぎる自己紹介のメッセージが来たかと思えばすぐに音声通話の画面に切り替わったので、近くに誰もいないのを確認して応答した。
『ごめんな、突然。津久見市四浦って紫生ちゃんの実家んとこやったなぁって。裕也から連絡とか来た?』
遥斗から聞かれ、私はSNSに入っていたダイレクトメッセージのことを正直に話した。返事をしなかったことも。
「来るなってちゃんと言っとけば良かったんかな…」
『いやぁどうかな…来んなって言われても行ったかも。アイツ、紫生ちゃんとヨリ戻したがっとったし』
「えぇ…?」
怪訝に思ったのをそのまま声に乗せてしまった。
私と裕也が別れたのは、裕也から別れを切り出されたのがきっかけである。理由は「可愛く見えなくなってきた」とかいうあまりにも失礼なもので、当初は怒りこそしたものの、どうせ何年かしたら田染家に嫁ぐかもしれないからと思ってそのまま別れたのを覚えている。
人を振っておいてヨリを戻したいとはなんと虫の良いことか─胸の内に得も言われぬ不快感が渦巻き出し「これを人はドン引きと呼ぶんだろうな」と思った。
『ところでこんなこと聞いたら失礼かもやけど、紫生ちゃん恋愛結婚やないん?なんか裕也がえらい気にしよったけんさ…』
「あー…そうやな。私の方はそう」
『何それ。相手は紫生ちゃんのこと好きなん?』
「まあ…そうらしい」
『えぇ…?まあ良いわ、変なこと聞いてごめんな』
「いや、大丈夫…また何かあれば」
電話を終えてすぐ、保奈美ちゃんが私を呼ぶ声で心臓が飛び出しそうになった。電話をしているところを見られて、誰と電話していたのかなどと聞かれたら少し面倒だと思ったが、保奈美ちゃんの声は遠く、近づいてくる気配も無かったので、恐らく電話のことは悟られていないだろうと踏んで保奈美ちゃんのいるであろう台所へ駆けつけた。
「紫生ちゃん、悪いんやけど洗濯物干し終わったら
そう言って保奈美ちゃんがレジ袋に入った大量のオバケキュウリを渡してきた。受け取りながらそれとなく保奈美ちゃんの表情を注視してみたが、おっとりした人となりを体現したような色白タレ目の丸顔には何ら変わった様子は見られず、私は安心して保奈美ちゃんの頼みを受けた。そうして洗濯物を干した後、朝から着ているTシャツとショートパンツにパーカーを1枚羽織り、オバケキュウリ入りの袋を提げて田染邸を出た。
親義さんの家は、田染邸のある小山から車が1台やっと通れる幅の鬱蒼とした坂を通って麓へ下り、南北にかけて延びている海沿いの県道を北へ向けて進んだ先にある。2階建ての四角いコンクリート住宅が多い鬼囲の中では珍しいとまでいかないものの少数派な平屋の日本家屋である。
私は麓へ下ってすぐの集会所の端にある自販機で水を買い、ちびちびと飲みながら広い県道を北へ進んだ。東には防波堤とその向こうに砂浜があり、上空をトンビがピーヒュルルルと鳴きながら滑空している。西は県道沿いや脇道の間に畑地と人家が入り混じり、密集地とも散村とも言い難い微妙な間隔の小集落を作っている。見慣れすぎた景色だがうんざりしたことは無い。忙しなく行き交う人波も塀のようなビル群も無く、見ているだけで胸のすくような思いがする。
とはいえ今の私はあまりすっとした気持ちにはなりきれなかった。頭の中でずっと裕也のことが渦巻いているのだ。
裕也の死因がずっと気になっていた。鬼囲に伝わる伝承に似ていた気がする。想い人と駆け落ちをした田染の女が、集落の外れにあるクヌギの木に吊るされて死んでいたという伝承に。
裕也の遺体が発見された場所は外れといえば外れだ。大きなクヌギもいくつか生えている。ニュースを見た光典の声が弾んでいたのも気にかかる。
まさか、と一瞬でも脳裏に浮かんだ可能性を、私は馬鹿馬鹿しいと払拭した。田染の人間は本当に鬼の血を引いていて、私が裕也の名前を呟いたのを聞いた光典が裕也を探し出して殺してしまった、なんて考えみたがあまりにも非現実的で且つ雑すぎる。子供の空想でももう少し丁寧に考えるだろう。裕也の死に方は妙だが私があれこれと考えても埒が明かないし、旦那やその家族を疑うのも失礼が過ぎる。私は何も考えずに生活をすれば良いのだ。そう思い直すと、僅かだが心が軽くなった。
鬼囲の北端まで来ると県道は西へ向けカーブを描き、緩やかな坂の上にあるトンネルへと続く。カーブの外径沿いには毎年盆踊り会場として使われている広場と、集落で唯一の店である藤原商店がある。
藤原商店の前に見たことの無い白いバンが1台停まっていた。多分通りがかりの余所者か何かだろうと特に気にも留めずに過ぎ去ろうとしたら、店から如何にも街から来ましたといった風体の若い男が3人、種々様々なアイスを持って出てきた。パンや惣菜の類が無いことを残念がるような会話をしていた彼等は、坂を上ろうとする私を認めるなりこちらを指差し「若い子おるやん」「話しかけてきて」などと言い合い出したので、私は早足になって坂を上った。
親義さんの家はトンネルの手前、右の脇道に入ってすぐの所にある。表札には『成松親義』と世帯主である親義さんのフルネームが書かれている。鬼囲の一帯では私の実家を含め成松姓が多数を占めるので、成松姓の中でも古い家はみんな表札にフルネームを掲げている。
玄関の引き戸を開けて呼びかけると、親義さんの奥さんがまぁまぁまぁと大袈裟な声を上げて出迎えてくれた。預かってきたキュウリを渡すと「まぁ〜良いのに〜」と殊更大袈裟に喜んだ。
「紫生ちゃん、田染さんちはどうな?もう慣れた?」
「うん。皆いい人やし、実家にそのままおるみたいですぐ慣れた」
「そらぁ良かったなぁ〜。いや実はちょっと心配しよったんやわ。光典くん、話したことも無いのに急に結婚してくれって来たんやろ?」
「えっ」
奥さんの問いに何と答えれば良いか分からなかった。
奥さんの言うことに間違いは無いが、田染家が絶対的な権力を持つこの集落の中で、田染の人間について否定的な話をされてハイそうですと答えるのは躊躇われるものだ。
しかし奥さんは特に答えを求めていたということも無いようで勝手に話を続けた。
「田染さんもそんな
「そ、そうかな」
「うん…まぁ紫生ちゃんが大切にされちょんのやったらそれが良いわ。じゃあ田染さん達によろしく言っちょってな」
「うん。ありがとう」
奥さんは光典について何か言い淀んでいたように見えたが、敢えて追及しなかった。何となく聞くのが恐ろしく思えた。
親義さんの家を離れ、坂を下りながらふと藤原商店の方を見据えると、あの若い男の集団が防波堤に寄りかかって何か話していた。近寄れば今度こそ話しかけられそうだと思ったが、坂には藤原商店の前を避けられる程の脇道など無いので来た道を戻るしか無い。
何も無い僻地なんだから早よ帰れよ─電柱の陰に隠れて男達がいなくなるのを願っていると、視界の右端に白いものが見えた
「紫生さん、ただいま。何してんの」
光典の愛車である白いセダンだった。開け放たれた助手席の窓を覗くと、長い髪を引っ詰めた光典が運転席で薄い笑みを浮かべていた。
おやもうこの人の仕事が終わった頃かと驚いたが、漁協が終業するにはまだ日が高く、スマートフォンを見たらまだ13時にもなっていなかった。えっと声を上げれば光典が「年内に使わんといかん時間給があったんで」と言う。
「で、紫生さんはどうしたの」
「あー…親義さんとこにキュウリ持ってってた。で、あそこにパリピ軍団おるやん。行き道で絡まれそうになったけん、このまま戻ったら確実に絡まれると思って」
「パリピ軍団て。乗りよ、一緒に帰ろう」
私は飛込むように助手席へと乗り込んだ。思わぬ助け舟を得た安心感か、隣で鷲鼻の目立つ横顔をくしゃっとさせて笑いながらハンドルを切る大男がやけに頼もしく見えた。
「光典さん来てくれて助かった。なんか自意識過剰みたいやけど、さっき本当に絡まれそうになったけん…」
「大丈夫、大丈夫。俺もナンパされたことあるけん分かる」
「えっナンパされたことあんの」
「それどういう意味なん」
光典とそんな話をしながら藤原商店の横を通り過ぎ、県道を南下していく。あの若い男たちが何気なくこちらを見て、それから悔しそうに頭を抱えて仰け反るのが見えて、光典が来なかったら本当に絡まれていたかもしれないと思った。
田染邸に上る山道の前の集会所に差し掛かると、光典が唐突に集会所の駐車場に車を停めた。
「どうしたの」
「紫生さんと2人の時に聞きたいことがあったんよ」
「え、何よ」
「ユウヤとはどんなことをしたん?」
光典の骨張った手が伸びてきた。
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