漂い、這う ⑤
錦鯉揺らめく庭の池にさざ波が立つ。いい塩梅に苔生した庭石に茂った楓の葉がそよいでいる。もうじき雨が降るかもしれない。
梅雨空の鈍色の元でも三守家の廊下は深く艶めいていた。
白く輝く障子の続く廊下を曲がり、渡り廊下まで渡って、もう随分と奥まで来た気がする。広大な屋敷ではあるが人は少ないのか。しん、と静まり返った雰囲気に緊張感も高まって行く。
「あの」
「何」
先を行く結希は振り返りもせずに答える。
愛想の欠片もない返事に言葉が詰まる。朔馬は逡巡した挙句、やはり一番気になることを投げ掛けた。
「あの、三守雅也ってのは……」
「弟だ」
短く答えて、結希は言い添えた。
「……双子の」
「双子?! 似とらん!」
反射的に叫んだ朔馬に結希の言葉がぴしりと飛ぶ。
「男女の双子だ。二卵性に決まっとる。似とるわけがない」
「あ、そっか。でもあいつにお姉さんがおるのは知らんかった。ていうか」
「あんたと私も同級生ってことやね。あんたのことなんか全く知らんけど」
それはお互い様じゃ。
こっそりと心中突っ込んだ朔馬の前で勝手口の扉がからりと開く。結希は蓮っ葉に顎先で外を指し示した。
「下駄履いて」
「お、おぅ」
「雅也のこと、“あいつ”って呼ぶ奴に初めて会った」
朔馬を先に通しながら結希が呟く。滲む感慨に彼女を見ると、同じ高さで目線が合った。
母屋の勝手口から出た数歩先には時代を感じる御堂があった。時代は感じるものの周囲は綺麗に掃き清められて、閂のかかった木戸は下がる鉄輪状の取っ手に至るまで美しく保たれている。
ここに来るまでの母屋以上に手が掛けられている。一見してそれがわかる御堂であった。
「ちょっと待って」
結希は慣れた手つきで閂を抜いて、取っ手を思いっきりよく引っ張った。
途端に頭頂から爪先に向けて悪寒が稲妻のごとくに走る。胸の中がせり上がり、脂汗が額にじわりと浮かんだ。
下に向きそうになる顔を何とか正面に向けると、御堂に入った結希が中の障子を開ける所であった。
土そのままの三和土の向こうにある上り框にさぁ、と光が射す。低く垂れ込めた梅雨空を裂いて、一筋の光が御堂を眩く照らし出した。
戸口から見るに室内は20畳くらいか。広々とした空間に敷き詰められた畳は中央だけ真四角に切られている。そしてそこにはしめ縄をぐるりと張られた立派な柱が1本、偉容を晒していた。
成人男性が両腕を広げて抱きかかえても手が届きそうにない程に太い柱の根元には、こちらもまたしめ縄を張られた自然石が据えてある。天井まで続く圧巻の柱に比べると高さ30cm程の石はちんまりと小さく見えた。
「こ、これは」
こみ上げる吐き気に口元を押えながら尋ねる。
さっさっと1人先に上がった結希は柱に片手を添えて、軽やかに笑った。
「
「……かみ、さま……」
「どうした水方朔馬。入っといで」
腕を組んで彼女は言う。
朔馬は結希に言われるままに一歩を踏み出そうとする。しかし足はぴくりとも動かない。強力な磁石に囚われた金属のように、その場に吸い付いて動かない。
突き上がる気持ち悪さに思わず入り口の柱を掴む。
伏せた頭の上を楽しそうな結希の声が滑って行った。
「そうだよなぁ。そんな重いモン引きずっとったらようは動かれんわなぁ」
「……重いモン?」
苦しい息の下から再び結希を見上げる。冷笑を湛えた結希は「ほれ」と朔馬の腹辺りを指差した。
言われたままに目を自分の腹に向ける。
見開かれた両の目がすぐそこにあった。腐った水の生臭い匂いが鋭く鼻腔を貫く。
悲鳴も上げられずにわずかに呻いた朔馬の様子に、女の顔をした大蛇はより一層嬉しそうに蛇体を巻きつけて来た。見るだけでもおぞましい斑模様の蛇体がぎりぎりと朔馬を締め上げる。
「お前に怪異を移したあの女がどこで拾ったかは知らんが、随分と臭い嫉妬やな」
臭い、臭い、と連呼する結希の声が近付いて来る。
「嫉妬はいつでも臭せぇなぁ、おい!」
朔馬を覗き込み、ちろり、ちろりと蛇の舌を見せていた女の頭が鷲掴みにされた。ずろん、とした重い感触と共に朔馬から蛇体が抜ける。その場で膝をついた彼の前を髪を掴まれた大蛇がずるずると引き摺られていった。
「あーぁ、うるさい、うるさい」
手荒に畳に打ち付けられた大蛇は激しく身をくねらせて怨嗟の咆哮を上げる。
“どうしてあいつが” “私の方がかわいいのに” “力もないのにチヤホヤされて”
性別、年齢の入り乱れた雑多な声が幾層にも降り積もって御堂内に激しく反響した。その声はどれもが不平不満を声高に叫ぶ嫉妬の雄叫びだ。
「でも“ウチの神様”には格好のおやつやな」
どかり、と結希の片足が容赦なく大蛇を踏みつけた。ご丁寧にぎりっと体重をかけた彼女の足が蛇体にめり込む。嫉妬の雄叫びの代わりに耳朶を弄する大絶叫が辺りに響いた。
「ほら、喰らえ!」
白い肌が露わになる。
作務衣の襟元を開いた結希の胸元で、アーモンド型の両目がぽかりと開いた。彼女の胸元にあるのは5cm大の人面瘡だった。その可憐な唇が綻んで、息を吸いこむ。
つむじ巻く強風に女の髪が吸い上げられた。びたん、びたん、とのたうつ巨体を人面瘡は麺を啜るがごとくに吸い込んで行く。
ぎゃあああぁぁぁ、という尾を引く絶叫を残して大蛇は人面瘡に呑み込まれていった。
全てを呑み込んで、にっこりと満足の笑みを灯すその顔に朔馬は唖然としたまま呟いた。
「……雅也……雅也やないか」
「そう雅也や」
結希は自分の胸元を柔らかく一撫でしてから、そっと作務衣の襟元を直した。かつての同級生の整った笑顔が濃藍の布に隠される。
「保つのにいい餌がなくて困とったから助かったわ。これで当分の間は雅也も安泰や」
「どういうことや」
結希は作務衣のポケットからスマホを取り出した。彼に向けられた結希の顔に浮かぶのはあのニヒルな笑みだ。
「いいな、お前。雅也のおやつ確保に最適や。連絡先教えろ」
三和土に降りて来て、眼前に立った結希を見上げる。スマホ片手に首を傾げてみせる彼女の面影に、三守雅也の面影が重なった。
微塵も似てないと思ったが、よう見たら笑った目元が同じやん。
そして朔馬のスマホに海藻女の連絡先が追加された。
かくもかそけき ぱのすけ @panosuke
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