漂い、這う ④

 もう限界だ。


 翌朝、ダイニングのテーブルでトーストを力なく咀嚼しながら朔馬は思った。

 

 目が覚めたら大蛇は姿を消していた。だが部屋には水の腐ったひどい匂いが充満しきっていて、思わずトイレに駆け込んだ。


 中の物をすっかり出しきった胃はきりきりと鋭く痛んでいる。

 でも会社には行かねばならない。

 何とかトーストを咀嚼してはいるものの飲み込むことすら苦しい。

 やけっぱちな気持ちでぐい、とお茶を煽る朔馬に台所で立ち働いている母の声がかかった。


「朔馬、あんた大丈夫?」

「え?」

「顔色悪いわよ」


 濡れた手をちゃっ、ちゃっとタオルで拭って、母がテーブルの方へやって来る。

 彼女は朔馬の顔を覗き込むと、慣れた動作で額に手を置いた。母の優しいぽっちゃりとした手の感触に、ぐっと胸が詰まる。朔馬は視線を明後日に向けて全身を強張らせた。


「……熱じゃないみたいねぇ」

 ふ、と息を洩らして母は隣に腰を降ろす。

「どうした? 何かトラブル?」

 柔らかく背中をさする母の温かみに朔馬の心が決壊した。

 25にもなって母の前で涙は見せたくない。そんな矜持も押し流していく程に彼の悩みは深く、重くなっていた。


「へ、……蛇が出る。ここ半月ずっと。寝とると俺の周囲を回って」

 あぁ、と母は頷いた。怪異を寄せる朔馬の体質は母も承知している。

「この間までは普通の大蛇だったのに、女の顔が生えて。昨日は俺の上に乗っかって来て『お前、見えているだろう』って……俺、やばいかもしらん」


 普通の大蛇って一体何だよ、大蛇な時点で普通じゃない。

 そんなツッコミを自らに入れながら、朔馬は黙り込んだ。黙ってまたトーストを齧り、咀嚼する。トーストはツンとした涙の味がした。


「ほうか。最近何も言わんから体質変わったんやな、って思っとったけど。やっぱり続いとんのか。そら大変やったなぁ」

「いちいち言うわけないじゃん。だってほかっておけば2、3日で消えよるし」

 母の言葉に朔馬はぶっきらぼうに言い返す。


「でもまぁ、今回は消えよらんと」

「……うん」

「蛇はやっぱりしつこいんやねぇ」


 変な感心を洩らして、母は手元にあった台拭きでテーブルを拭き始めた。ほとんど無意識で手を動かしながら、彼女はきっぱりと朔馬に告げる。


「朔馬、今日は会社休みん。母ちゃんと草木染めの教室行こ」

「は?! それどころじゃないわ」

「あんた覚えとらんか、三守みつもりさん。中学生の時に亡くなった子おったやろ」

 母は台所へ戻りながらも喋り続ける。


「母ちゃんの行っとる教室な、その三守さんの家でな。拝み屋もやっとるらしいんよ」

 


 篝ヶ浦かがりがうら地区でも海寄りにある朔馬の家とは反対に、三守の家はなだらかな起伏の続く山側に立っていた。

 延々と続く黒板塀を両脇に従えた門は、切妻の屋根をいただいた格調高い門であった。固く閉じられ門扉の脇には「三守」と彫られた表札が厳かに掛かっている。


“ あいつ ”こんな豪邸の坊っちゃんだったんかよ。

 

 三守雅也。

 中1の1学期だけ、それもほとんど学校に来なかった級友の面影が立ち上って来る。

 土手に大胆に広がったスカート。間近で覗いた華奢な横顔。綺麗な線を描いていた鼻梁の感じが思い出される。

“まぁ、いいから寝てけよ”という気安い声まで聞こえるようだった。


 朔馬は言葉を失って、剃り損ねた髭が疎らに咲く頬を撫でる。そんな彼に通用口に手をかけた母が声をかけた。


「ほら、こっちやって」

「……あ、あぁ」


 生返事をしながら母の後を追って邸内に入る。

 通用口を潜った先にあるのは趣きのある純和風の庭園だった。美しく切り揃えられた松の葉が梅雨時の曇天の元で青々と輝いている。敷かれた玉砂利の間を通るのは千鳥打ちに打たれた飛び石だ。


「こんにちはぁ」

 

 訪いを告げる母にくっついて大人2、3人が余裕で寝れそうな三和土に恐々と入る。

 式台のある玄関には、一枚板に華麗な牡丹が彫られた衝立が置いてあった。そして、衝立の向こうにはしっとりと光る廊下が奥に向かって続いている。

 微かに香の匂いが漂う上品な空間に、気持ちはすっかりよく知らない親戚の家に連れて来られた小学生男子だ。


「こんにちはぁ、水方です!」


 2度目の訪いに対して、右の方から「はぁい」と声が返って来た。

 軽い足音がトストスとこちらへ向かって来る。

 姿を現したのは濃藍の作務衣を纏った若い女性だった。


「あぁ、結希さん。こんにちは」

「こんにちは、水方さん」

「……お前っ!」

 女性は母に親し気に笑い掛ける。見覚えのあるその顔に朔馬は息を呑んだ。


「海藻女!」


 素っ頓狂な声を上げた朔馬に、海藻女こと三守結希は不遜に腕を組んで、ふふんとニヒルに笑った。


「来たか。私についておいで」

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