漂い、這う ③

『あー、蛇? この間話した大蛇の夢ね』

 

 半月ぶりに聞く遥の声は快活そのものだった。

 遥の声に交じって、「お疲れ様です」というやり取りが微かに聞こえる。彼女はまだ職場にいるらしい。

 

 朔馬は目指すスーパーを視界に捉えながら、何度も細かく頷いた。

「そうです、そうです。その後どうですか?」

『あー、あれね』

 食い気味に訊き返した朔馬の耳元で朗らかな笑いが炸裂する。


『やっぱり気のせいだったみたいだわ。あれ以来、何も見とらん』

「え……もう全く?」


 何で微妙にがっかりしとるんよ、と遥の声が低くなる。唇を突き出して拗ねている様が目に見える言い方だ。朔馬は慌てて首を振り否定した。


「いや、がっかりはしてませんけど。どうなったかなって思って」

『ふぅん』

「ちょっと聞きたいんですけど、あの夢を見る様になったきっかけってあったんですか? 心霊スポット行ったとか」

『私がそんなとろくさい事するわけないやん。ある日突然よ』

「……そうですか」

『どうしたの。こういう話興味ある人?』

「うーん、そういうわけでもないですがちょっと気になって」


 遥の問いかけを曖昧に濁した朔馬は、また飲みに行きましょう、と胡乱な口約束を付け加えて電話を切った。洩れた溜息と共にスマホをしまう。

 朔馬はがっくりと肩を落として、目の前に開いたスーパー入り口にのろのろと入った。


 底抜けに明るい店内は仕事帰りの人達で、思った以上に混んでいた。籠を片手に、その群れに混じりながらも、朔馬の胸中はもやもやとしていた。


 やはり怪異は遥から朔馬に移って来ていた。今までと同様だ。


 人から話された怪異が降りかかって来る。

 それは初めてのことではない。

 子供の頃から何度も体験して来たことだ。


 ただ大抵の怪異は見ぬふりをして、目を逸らし続ければやがて消えていく。その法則は幼少期よりの体験で得たものである。


 しかし、今回は勝手が違ったようだ。

 初めて大蛇の怪異が起きてから半月近く。怪異は去る気配もない。しかも嫌な変化まで遂げつつある。

 昨晩、大蛇の顔が女性となった。

 

 青々と生気を放つ野菜達を横目で見ながら青果売り場を重い足取りで通過し、目的の乾物の棚で朔馬はしゃがみ込んだ。

 国産、特用、自社オリジナル。

 母親に頼まれたふえるわかめのパッケージを意味も無く幾度も目でなぞる。


「……本当どうしよう」

 しゃがんだ膝に頬杖をついて思わず呟いた。

 言ったところで今の状況が変わるわけでもない。そう分かりつつも呟かずにはおれない。

 朔馬はぞんざいにわかめの袋を掴んで立ち上がった。


「あ!」 

 

 頭に軽い衝撃があり、足元にばさりと袋が落ちる。

 後ろから手を伸ばしている人に気付かずに立ち上がってしまったようだ。朔馬は慌てて足元に落ちた袋を拾い上げた。


「す、すいません!」と相手に差し出した袋に書かれたのは雅な行書体で書かれた「刻み昆布」の文字。

 その向こうで素っ気なく「どうも」と受け取る女性の顔にふと動きが止まる。

 

 どこかで見た覚えがある。そんな気がした。

 相手の手にある黒々とした刻み昆布。自分の籠にあるふえるわかめ。海藻が朔馬の記憶をちくちくと突き刺す。

 

 最近、海藻に関わる何かで見たことがある人。海藻が関わるもの自体が何なのか、という気はするが。海藻と繋がっている人。


 唐突にこの間の居酒屋のテーブルが頭の中で閃いた。

 仲良く並んだめかぶ、ひじき煮、海ぶどう。


「……海藻の人!」

 素っ頓狂な声を上げてから、しまったと口を押える。

 相手の女性は眉ひとつ動かさずに、平坦に言い返して来た。


「そんな人になった覚えはないが」

「すいません……」

 女性はぽい、と刻み昆布を籠に投げ込んだ。一旦外れた目線が再び朔馬に向けられる。しかしそれは朔馬本人というよりも彼の後方に向けられていた。

 女性の口元にかすかな笑みが浮かぶ。妙に乾いた、ニヒルな笑みだった。


「面白いものつけとるね」


 それだけ投げかけると女性は身を翻して立ち去って行った。颯爽とした足取りで立ち去る女性の後ろ姿を見送りながら、朔馬はぽかんと通路に立ち尽くした。

 底抜けに明るいスーパーのBGMが間抜けな調子で流れていた。


 その夜。

 自室で眠る朔馬はいつもの気配で目が覚めた。

 ぱちりと目が開くと同時に「やっぱりまだか」と絶望に近い失望が胸を過ぎる。

 案の定、体はぴくりとも動かずにただ目だけが動く。


 ずり……ずり……ずり、とお馴染みになった重い音が足元からして来る。

 固い鱗がフローリングを這う音はもう慣れっことなったが、さすがに女性の顔が生えた大蛇は何度も見たいものではない。

 朔馬は目を閉じた。


 ずり、ずり、と音が這って来る。

 ずり、ずり、という音の合間に空気を含んだ、ぺた、ぺた、という音が入って来る。


 え? どういうこと?

 

 ずり、ずりはともかくとして、ぺた、ぺたは今までなかった音だ。

 湿り気を帯びた何かが床に張り付くような音。そう例えるならば、人間の肌のような。


 不気味な変化を遂げた昨晩の大蛇の姿が甦る。女の顔が生えた蛇体の姿が。

 鋭く眉を吊り上げて、かっと目を見開いた女の相貌はまさしく般若そのものだった。


 顔だけ女となった大蛇が床をうねってくる様子はさすがに耐えられなくて、慌てて目を閉じたが、今日は一体どんな変化を遂げているのか。


 でも絶対に見たくない!

 

 すっぽりとタオルケットをかぶってしまいたいが、生憎と体は動かない。

 朔馬は閉じた目にぐっと力を込めた。

 その瞬間、腹に重みがかかった。ベットがぎしりときしんで、朔馬の体がマットレスに沈み込んだ。

 鱗がタオルケットに引っかかる感触が腹から這い上がって来る。かかる荷重に呼吸がし辛い。


 これはどう考えてもやばい。

 這いずって来る大蛇の腹側の微かな温かみに産毛が逆立つ。心臓がドッ、ドッと早鐘のごとく鼓動を打つ。その音が耳の中にこだまして、より一層の危機感を煽って来る。

 ほとんどパニックとなりながら、朔馬は何とか息を吸おうと鼻から空気を吸い込んだ。途端に濃密なドブの腐臭が流れ込んで来て、反射的に咳が出た。

 

 ぴとりと両頬に手が添えられる。

 吸いついて来る触感と気色の悪い冷たさに思わず目が開いた。

 

 すぐ目の前に女の顔が迫っていた。

 血走った両目は怒りを湛えて爛々と狂気を孕み、朔馬を睨みつけていた。

 女の口が開いて蛇の舌がちろりと覗く。開いた口から吐き気を催す程の腐臭を撒き散らしながら女は低く呟いた。


「お前、見えてるだろう」


 朔馬の意識はそこで途絶えた。

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