漂い、這う ②
「結局、あれや! 飲めば何にも怖くないわなぁ!」
数十分後。
すっかりと出来上がった遥が吼えた。彼女の前には飲み干した空のグラスが戦利品とばかりにズラリと並ぶ。満席の店内に手が回らないのか、さわやかバイト君もグラスを下げに来ない。
「じゃ、帰ろか。翔太!」
「誰ですか、それ。朔馬っすよ」
「そや、朔馬。みなかたさくま! どっちが名字か分からんなぁ!」
何がツボに入ったのか、遥は両手を打ってケラケラと笑い転げる。
彼女は覚束ない手つきでテーブル上のスマホを掴み、もう一方の手で鞄を手繰り寄せて勢いよく立ち上がった。
急激に回ったアルコールが遥の足をもつれさせる。
立ち上がった勢いのままにドスン、と再び座り込んでしまった彼女の鞄が隣のテーブルを直撃した。陶器のぶつかり合う派手な音が椿事を告げる鐘のごとくに周囲に鳴り響く。
「す、すいません!!」
反射的に中腰になる。
隣のテーブルの女性は、ちびりと冷酒をあおると静かに首を振った。当の遥は、てっへっへと締りのない笑顔でゆらゆらとしている。
「あぁ、もう! 先輩!!」
朔馬は斜め掛けバッグを引っ掴んで、遥の腕を取った。
「ほら、帰りますよ!」
「タクシー、タクシー呼んで」
「呼びますから、取りあえず立ってください!」
うぃっす、と立ち上がった遥はようやく隣の女性に頭を下げる。
「失礼しましたぁ」と気の抜けた謝罪に、朔馬も「ホンッとすいません」と精一杯の真剣味を添えた。
「大丈夫です。この位」
素っ気なく返して来た女性に再度会釈して、朔馬は遥の腕を取る。
軟体動物の不安定さで歩き始めた遥の肩越しに、ちらりと垣間見えた隣のテーブルは、深い緑の集合体だった。
もずく酢、ひじき煮、海ぶどう。
仲良く並んだ海藻三兄弟に目を奪われる。
どれだけ海藻好きなんだ、と隣の女性を見る。しかし女性は既にこちらへの興味を失って、冷酒をすいすいとあおっていた。
その後、遥を乗せたタクシーを見送って、両親と住む自宅へと戻った。
酔っている時は余り長湯したくない。風呂もそこそこにベッドへと潜り込むと、朔馬はあっという間に眠りに落ちて行った。
深夜。不意にぱちりと目が覚めた。
酒が抜け始めたせいか、ひどく喉が渇く。
朔馬は水を飲もうと、申し訳程度にかけたタオルケットをのけて身を起こそうとした。
だが持ち上げようとした腕はぴくりともせず、ただわずかに指先が細かく震えるのみだった。
金縛りにかかっとる。
たらり、と汗が枕元へと流れた。
“あのなぁ”
ほんの数時間前に聞いた遥の声が甦る。
“夜寝てるとなぁ”
足元にぞくりと悪寒が走る。
同時に、ずり、と床を擦る音がわずかに聞こえた。
唯一動く目で必死に足元を見はするものの、首が上がらない。
あぁ、ちくしょう!と叫びたい衝動が胸をつくが、喉は空気を押し出すのみで声は出ない。
足元の悪寒がじわじわと上がって来る。
羽で肌の表面をそうっと撫でられるような、むず痒く気色の悪い感触が体を襲う。
ずり、ずり、と音が這って来る。
巨体を感じさせる音が足元から、次第、次第に迫って来る。闇に慣れた視界に、“それ”が少しづつ入って来る。
“……蛇が来るんよ”
周囲の闇よりも一際深く凝った闇がベットの脇で蠢いた。
鎌首をもたげた巨体がずり、ずり、と顔の横を這って行く。日陰のすえた匂いが鼻孔を掠めた。
気配は頭の方へと回って行き反対側に移って行く。うねる蛇体がゆっくりと足元へ向かって行く。
やっぱり来たか……。
でも来られたところで朔馬には何も出来ない。彼に出来る唯一は、目を閉じてやり過ごすことだけだ。
何日続くんだ、これ。
悟りの境地に至った諦観で、朔馬は目を閉じる。ずり、ずり、と這い回る音はやがて意識の彼方に遠のいって行った。
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