漂い、這う ①

 夜は8時。

 居酒屋の店内は各テーブルから上がる酔客の喧騒に満ち満ちている。中身のない浮つきの中を突っ切って小走りにやって来た店員に、朔馬は気安く指を2本立てた。


「ハイボール2つ、濃いめで」


 そう言ってから、「いいすよね?」と向かいに投げかける。大学時代の先輩である遥は、赤く染まった顔を深くこくりとさせた。


 大学生くらいだろうか、店員は歯切れのいい笑顔で注文を受けると勢いよく声を放つ。


「ハイボール2つ、濃いめ いただきましたぁ!!」


 野太い返答が店のあちこちから帰って来るのを背景に、店員は「空のグラスいただきますね」と物腰柔らかく告げて、テキパキとグラスを下げて行った。

 片づけられたグラスと共に、2人の間に広がっていた会話がぱたりと止む。

 遥は背もたれにドカリともたれてスマホを手に取る。朔馬はテーブルに残ったグラスの滴を何気なく拭いた。


「あのさぁ、変なこと言ってもいい?」

「は?」


 遥の目は真剣にスマホの画面を追っている。仕事の連絡だろうか。

 つい先程まで見せていた大学のキャンプ同好会部長の無邪気な笑みは消え、そこにいるのは目元に疲れを滲ませたアラサーの女性である。


「変な事って?」


 恐る恐る訊いてみる。

 遥はスマホの向こうからちらりと朔馬を見ると、溜息と共にことりとスマホをテーブルに置いた。


「あのさぁ、気のせいかもなんだけど」

「……はぁ」

「中々、言える人がおらんくって」


 思わず黙る。

 腹の底からむくりと起きた疑惑を押し返して、朔馬は先を促した。


「……夜寝てるとなぁ蛇が出るんよ、でっかい蛇。10メートル級の大蛇」

「アマゾンの話?」

 アナコンダ、と茶化しかけた朔馬に鋭い一瞥が飛ぶ。朔馬は小さく「すいません」と謝った。遥はつまらなさそうに放置されていた枝豆を頬張る。


「笑いごとやとは思うよ」

「いや、でも、あの……大蛇って。どこに出るんすか」


 いけない、と思いつつも朔馬はつい話を振ってしまった。笑い飛ばして、話を逸らさせるには目の前の遥は真剣に過ぎる。


「夢の中……なのかな?」

「……あぁ」


 やっぱりそういう話かぁ、と思わず頭を抱えた朔馬に遥は「なによ」と不審気に顔を顰めた。


「いや、俺のことは気になさらず。どうぞ」

 どうぞ、どうぞと手の平をひらひらさせる。

 遥はもう一度、「なによ」と呟いて、今度はたこわさを口に投げ入れた。


「……もう1週間くらいになるかな。寝とるとな、変な音がしてくるんよ。こう……ずり、ずりって床を擦る音が」


 真っ暗な闇の中からフローリングを擦る音がゆっくりと近づいて来る。

 体は動かない。自由になるのは目だけ。

 ずり、ずり、と近づいて来た音はやがて寝ている周囲をぐるぐると回り始める。

 視界の隅にちらつくのは、闇に沈んだ鱗。


 一気に言って遥は黙り込む。

「えぇっとつまり……」と言いかけた言葉に店員の朗らかな声が重なった。

「お待たせしましたぁ! ハイボール、濃いめです!!」

 ありがとう、と受け取った遥は濃いめのハイボールをぐいとあおる。


「いや、でも多分。夢やな! 慣れん主任の仕事任されて知らん内にストレス溜まっとるんかな」

「あぁ、うん。まぁ」 

 相槌を打ちながら、ふと隣のテーブルを見る。すると隣のテーブルの女性も朔馬達の方を見ていた。

 これだけ近い店内だ。周囲がうるさいとはいえ、遥の話す内容が聞こえていたのかもしれない。

 

「でもなぁ」

 

 視線を戻す。

 遥は汗をかいたハイボールのグラスを両手で掴んでいた。その指先に、きゅっと力がこもる。


「夢やったら、何で毎朝部屋ん中が臭うんやろうなあ」

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