かくもかそけき

ぱのすけ

問わず語り

 それを見たのはこんな夕方やったな。

 

 日課の犬の散歩。

 海沿いの堤防をずっと行くんだけども、降り出した雨のせいか、その日は誰もおらんかった。

 雨と埃の混じりあった匂いが立ち込めとる中、いつも通りに散歩を続けとると、後ろからジャッ、ジャッと地面を擦る音がして来よる。

 

 その音を聞いた途端に何故だか二の腕にサーッと鳥肌が立っての。俺はその場から動けんくなった。

 連れている犬はぐいぐいとリードを引っ張るが、どうにも足が動かん。

 

 その間にも音は近付いて来る。ジャッ、ジャッと近づいて来る。

 視界の端に真っ白な足袋が、おろしたての草履が、翻る着物の裾が。段々と見えて来よる。

 

 やって来たのは早乙女舞の一団だった。

 あんた、知っとるか? 早乙女舞。瑞神あらしのでも東部辺りに伝わる田植えの踊りだ。

 あれを舞ってる列が来よったんよ。


 列は5、6人程度やった。手拭をあねさんかぶりにしていて顔は見えん。

 そんなんがひらり、ひらりと優雅な手付きで舞いながら通り過ぎて行きよる。

 地面を擦る音が俺を越して遠ざかって行く。篠付く雨に煙る道に後ろ姿が溶け込んで行く。


 ……と、思ったらな。

 列の最後の1人がパタリと止まった。

 そしてゆっくりとこちらを振り返って来る。

 あねさんかぶりの手拭の角度が変わって行く。ほつれた髪が見えて来る。頬の曲線が、白い鼻梁が……。


 これはやばい! 見られたら死ぬ!!

 

 本能的にそう思った瞬間、犬がけたたましく吠えたんよ。

 女の姿は消えて、俺の脇を自転車に乗った高校生の集団が過ぎて行きよった。

 堤防は普段通りの人が行き交う、日常の風景に戻っとった。

 

「てなもんよ、兄ちゃん」

「……はぁ」


 水方朔馬みなかたさくまは気のない相槌を返した。隣に座る初老の男性はしかめ面で前方を見据えている。


 梅雨時の夕暮れ。

 バスの車内はにわかに降り出した雨の湿気がこもっている。朔馬は額に浮かんだ汗を愛想笑いと共に拭って、そっと溜息をついた。


 嫌な予感はしていた。

 土曜日の夕方。バスの車内は人も疎らで空いてる席ならいくらでもある。しかしその男性はわざわざ朔馬の横に座ってきた。

 

「やっぱりあの堤防は何かおるぞ」

「うん、まぁ、色々とありますよね。うん」

 

 矢継ぎ早に返事して、ピッと降車ボタンを押す。

 まだ話し足りなさそうな男性を尻目に、「ここなんで」と言い訳しながら、朔馬は慌ただしくバスを降りた。

 

 ぬるま湯のごとき熱気の中、ビニール傘を広げた彼の横をバスが通り抜けて行った。滴のしたたる窓から垣間見えた男性の横顔を朔馬は恨めしい気持ちで見上げる。


「まただ。なんでこういつも……」


 スマホに夢中なふりをして予防線を張ったが無駄な抵抗だった。お構いなしに話し出す男性を無視しきれずについ話を聞いてしまった。


 どうして俺に話すかな。

 

 肩をぱっぱと払って、歩いて来る人を避けながら、待ち合わせの居酒屋へと向かう。 

 駅近くに広がる昔ながらの飲み屋街は、埃っぽさと昭和の陰が今日も色濃く漂っていた。

 狭い敷地にギュッと様々な飲み屋が詰め込まれて、猥雑な小路が縦横無尽に駆け抜ける。

 昼と夜とが入り混じりる薄闇に、居並ぶ店の看板がぽつりぽつりと灯りを放ち始めていた。


 そろそろか。

 身構えた朔馬の背後でジャッジャッと音が鳴った。


「ああ、もう。……やっぱり」


 朔馬は観念したかのように瞑目して天を仰ぐ。そして傘を持つ手に力を込め、それらを振り切るように歩を早めた。やり過ごそうとする彼を無情に複数の足音が追って来る。


 ジャッ、ジャッ、ジャッ。

 決して早くはない。それでもほぼ小走りの朔馬にぴたりとついて来る。

 小路の先に灯りが滲む。先輩の遥と待ち合わせたいつもの居酒屋の見慣れた赤ちょうちんが「おいで、おいで」とばかりに風にそよいでいる。


 後、もう少し。そこまで。

 

 足音がすぐ後ろまで迫って来ている。今にも吐息のかかりそうな濃密な気配が朔馬の背中に重くのしかかって来る。細い指先が艶めかしく、汗ばんだ背中をすいっとなぞった。


 小路から突如、飛び出して来た朔馬を通りかかった通行人が慌てて避ける。

 ぶつかりそうになった瞬間。耳元まで迫っていた張り詰めた空気がふっと霧散した感触を覚えた。


「す、すいません」


 上擦って頭を下げると、相手もぺこりと会釈して去って行く。

 空気が変わった。雨に濡れたアスファルトの匂いに胸がむせる。五感で触れる現実に、「逃れられた」という安堵を得る事が出来た。


 だが、まだ心臓がバクバクと鳴っている。

 噴き出した冷や汗を拭って、朔馬は小路を振り返った。

 

 夜闇に沈む小路の中に溶け込んで行く、あねさんかぶりの一団。場違いにゆら、ゆらと舞う手が異界への道標のごとく仄白く路地で咲いている。


「……これだから嫌なんだ」


 苦々しく言い捨てて、朔馬は傘をすぼめた。

 やけっぱち気味に引き戸を開けた彼を威勢の良い掛け声が出迎えた。

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