第三章 Ⅴ(最終回)
日を改めて、わたしとソフィアとヘルマンの三人は宮殿に招待された。皇帝の特別なはからいで常ならば立ち入ることの出来ぬ宝物庫も見せてもらった。
収納されている宝物の中には、三つのリゲイリアもあった。
横長の水晶函の中で敷物の上に鎮座している水晶珠と魔法杖とエニシダの箒。どれも古ぼけていて、骨董屋の店先で陽に焼けている古物と大差ない。さらにはこれとても、各地の博物館に展示されているものと同様、模造品なのだ。本物はどこかに隠されていて、諸説あるその隠し場所は限られた者しか知らない。
「それを東帝国の手の者が二百年かけて突き止めたのだ。余の即位の為に宮殿にはこばれる途上を襲われた」
盗まれたのは三つのリゲイリアのうちの一つだった。奪われたリゲイリアのことは外部には極秘にされた。ごく一部の者にしか盗難は伝えられず、新皇帝の即位の儀は滞りなく行われた。
「本物も偽物も見た目にはまったく違いが分からぬからな。盗難に遭った品の方が模造品だというふりをして、こちらの偽物を用い、それで押し通したのだ。しかし即位式に使われたものは本物ではないことを、誰よりも余が知っていた」
ベルンハルディン皇帝は強く光る眼をして、リゲイリアの納められた水晶の蓋に手をおいた。二つの本物と一つの偽物の聖遺物をもって青年皇帝は皇帝の座に就いたが、血気盛んな皇帝はもちろんそのままにはしなかった。
「奪われたものを奪回するのは当然のことだ。だから余は東に軍を進めた」
即位後、ベルンハルディン皇帝はすぐさま斥候を放ち、盗まれたリゲイリアが東帝国のとある地方に隠されていることを突き止めた。その一帯を統治していたのは、二百年前に暁の皇子に従って帝国から去った王の楯の家だった。わたしの生家だ。
ヘルマンが皇帝を見上げた。
「皇帝陛下。盗まれた品は何だったのですか」
「エニシダの箒だ」
皇帝はヘルマンの頭に手をおいて応えた。
嵐の中、わたしは誰かと箒に乗っていた。あの古ぼけた箒。あれがそれなのだ。そしてわたしを乗せて聖なるエニシダの箒を操っていた少年は、わたしの実の兄だ。
何処に行くの兄さま。
戦いのないところだよ、ユディット。
皇帝は大山脈地帯の防衛を固める一方で密命を与えた別動隊を動かし、敵地を急襲した。箒の奪還を目指して東方に侵攻した皇軍は、わたしの父が治めていた領土を包囲した。
わたしの故郷は戦場と化した。黒天馬が皇軍と激突し、魔法砲弾が放たれる度に魔法使いたちが空から堕ちた。夢の中で真っ赤に見えていた夕焼けはその時の戦の炎の色なのだ。
攻防戦の最中、わたしの実兄はエニシダの箒にわたしを乗せて父の城から飛び立った。
「父上は反対したが、ぼくにはこうするしかないように想う」
父と激しく云い争った兄は城の一室に軟禁されていたが、そこから抜け出し、リゲイリアの箒を盗み出したのだ。
「皇帝軍は父上たちが盗んだこの箒を奪い返しに来たのだ。だから帝国領に行ってこの箒を西側の皇帝に差し出せば、この戦争はすぐに終わる」
逃亡はすぐに発覚した。嵐の中、わたしたちは味方である黒天馬に追われた。黒天馬は領主の子であるわたしと兄を攻撃することを躊躇いながらも、牽制と抑止の魔法は矢継ぎ早に飛んできた。
「ごめん、ユディット」
飛来した魔法は兄を傷つけ、わたしの脚を傷つけた。
「お前を一緒に連れて来たのは、幼いお前がいれば攻撃してこないだろうと考えたのと、亡命した後もお前がいれば父上との間の停戦交渉を有利にはこべると見込んだからだ。でも、甘かったようだ」
帝国に向かうにつれて空が暗くなり、雷雨が激しくなってきた。冷たい風の中でわたしは兄にしがみついた。下界は険しい山々だ。
魔法を浴びたわたしの右脚はおかしな音を立てて、ぶらんと垂れ下がった。
深手を負った兄が操る箒は、伝説の魔法使いの箒なだけあり巧みに黒天馬を引き離したが、しだいに傷んで傾き始めていた。エニシダの箒は東西の境にあたる雪山を越えた。
わたしを落としてもいいわ、兄さま。
雷雨の中、わたしは泣きながら兄に告げた。
一人なら逃げ切れるでしょう。
しかし兄はわたしを放さなかった。
乗り手が失血していくにつれて魔力は失われ、ついに箒は森に堕ちた。自らも大怪我をしていた兄は最期の力を振り絞り、そしてわたしの命だけが助かった。
「皇位継承権を裏打ちするリゲイリアの箒。それがその時、そなたらが乗っていた箒だ。そなたの兄は、叛乱軍が盗んだ箒を帝国に返還しようとして飛んだのだ」
ベルンハルディン皇帝は迫力のある眼でわたしの顔を見据えた。
「実はそなたを宮殿に運び込んだのは、手当をするついでに、少々尋問したかったからだ。いや、手荒なことなどは一切しておらぬ。水晶珠を用いた催眠術のようなものだ。しかし何も分からなかった。宝の箒の行方を本当に知らぬのか」
「それが真にリゲイリアの箒だとしても、あの箒は森に墜落しました」
わたしは皇帝に知ることを応えた。
「兄とわたしは樹海に投げ出されました。その直後、地面に突き刺さったエニシダの箒に雷が落ちたのです」
雨の中で燃えている一本の木。あれは落雷で燃え上がった箒の姿だ。
「箒は燃えて灰になりました、陛下。リゲイリアの箒は永遠に失われております」
ティリンツォーニの畠で見つかった女児は箒を持っていなかった。
わたしはその箒が大切なものだと知っていた。もし邪心ある者に奪われると大変なことになると兄から聴かされていた。
生き残ったわたしは雨の中、兄の遺体と箒の残骸を森に埋めて隠そうとした。魔法を使えば地面に埋めるよりももっと簡単に箒を粉々に壊せると気づいたわたしは、魔法杖を取り出した。
箒を持つんだ、ユディット。
落雷を受けたエニシダの箒は焼け焦げて裂け、とても使えるような状態ではなかった。兄が最期の魔法でほんの少しだけ箒を延命させた。自分はもう助からぬとみて、妹が森の深部から外界に出るまで箒が持ちこたえるように。
その箒が、お前を新しい世界に連れて行ってくれる。
瀕死の兄が死ぬ間際にかけてくれた魔法の力によって、箒はわたしを乗せて森を進んだ。あの焼け焦げた箒の、原型を留めぬ頼りない破片が、森の出口まで連れ出してくれたのだ。
そして神聖な箒はそのまま行方不明となった。あの焦げた木切れが箒だと誰にも気づかれることなく、箒の残骸は砕けて朽ちるまま、土の下に失われていったのだろう。
墜落したと思しき地点を探して兄の亡骸を探すことを皇帝は赦してくれたが、わたしは断った。十数年も経っているのだ。兄の遺体はすでに森の獣が喰いつくし、その骨も四散している。
その代わり、郷里の方角を望む樹海の端にわたしは兄の為の小さな碑を建てた。百年もすれば誰からも忘れ去られて埋もれてしまうだろう小さな墓標だ。
兄さま。
ジュリオのことを「兄さま」と呼ぶたびに、わたしの胸には慕わしさと哀しさがこみ上げていた。死んでしまった本当の兄がわたしにいたからだ。兄は箒が墜落する時もわたしを庇ってくれていた。
その少年の笑顔は、ジュリオやアレッシオのものと混ざっている。もしかしたら森の奥に消えていくわたしに向かって、忘却の魔法を兄がかけたのかもしれない。戦争を終えるために嵐の空を飛び、力を振り絞って小さな妹を護ろうとした健気な少年。
森に碑を建てるにあたり、ベルンハルディン皇帝は同行すると云ってきかなかった。お蔭で皇帝専用の豪奢な馬車で送迎してもらうことができた。わたしは箒を失っていたので皇帝が馬車を出してくれたことはありがたかった。
ベルンハルディン皇帝は武力侵攻した過去に後悔はしていない。だが、若き日の蛮勇の責任を感じ、何かのかたちでわたしに償いたいのだ。もちろん抜け目のない皇帝のことだ、目的はそれだけではない。
帰りの馬車の中で皇帝はさり気無く、『契約の剣』の話を持ち出してきた。
「あるそうではないか。ティリンツォーニ家に」
「初耳です。陛下」
首を傾けるわたしを皇帝は睨んだ。
「暁の皇子に忠誠を誓う証左となる剣だ。帝国においては謀反の印。もし見つかったら、怒らないからすぐにこちらに寄こしなさい」
「そのようなことはあるまいと存じますが、もし見つかれば、必ずそのようにいたします。陛下」
皇帝の馬車はそこが宮殿の一室だと云われても信じたほどに内装も乗り心地も抜群だった。
獄舎に訪ねた時、ジュリオは契約の剣の隠し場所をわたしに教えてくれた。そしてお前の好きにすればいいと云ってくれた。
わたしはジュリオに返事をした。暁の皇子が下された剣は、今までがそうであったように、これからも同じ場所に隠しておきます。暁の皇子と現在の皇系。どちらが正しいのかはこの先の双方の皇帝の施政が決めてくれるでしょう。わたしはこれまで大切に継承されてきたものを、同じように大切にしていきます。
「わたしは兄さまの妹。ティリンツォーニ家の人間ですから」
樹海に落ちたエニシダの箒がティリンツォーニ領までわたしを運んだのは偶然ではない。森から出たわたしの前には、きらきら光る葡萄があった。宝石つきの契約の剣は、ティリンツォーニの葡萄畠に農夫を番人として今も、そしてこれからも、魔法の蔦に覆われて隠されている。
豪華絢爛な空中馬車は優雅に空を飛んでいた。わたしは窓の外を見ていた。魔都が近くなった頃、皇帝が口を開いた。
「そなたは大切に生きなければならないぞ。死んだ兄の為にもな」
「はい」
「ここに、こんなものがある」
皇帝はわたしに招待状を差し出した。
誰が相手になっても、取り交わす会話の流れは頭に入っている。あまり気はすすまなかったけれど、せっかくの皇帝陛下のご招待だ。素敵な魔法使いと踊れたらきっといい夜になる。
魔法使いの方から魔女に話しかけるのが作法。肝心なのは過剰な好感を持たれなくてもいいから反感を買わないこと。兄たちに恥をかかせないこと。ずっとそう想って努力してきたの。舞踏会に行ける日が来たら、はじめて白い箒で空を飛んだ時と同じように、どんな魔女でも夢みる夢の一つが叶うでしょう。
最初の頃は踊りが下手だった。練習して今はもう巧く踊れる。だから踊りに誘う魔法使いの手がわたしに向かって差し出されるのを待つだけでいい。
主賓のくせに皇帝は臨席しなかった。会場は、貴族の淑女がお披露目会をするのと同じ冬の宮殿。皇帝が寄越してくれた皇室御用達の仕立て屋が今宵のために素晴らしいドレスをわたしとソフィアに誂えてくれた。
若い軍人も大勢来ていた。士官以上は準貴族階級に相当するのだから彼らがいるのは当然のことだ。銀燕の諸君もいる。いつもの軍服と型は同じでも色が白で、飾緒のついた夜会用の第二種礼装姿だ。
音楽が始まった。最初に踊りを申し込んでくる魔法使いはその魔女の求婚者。
ひとりが仲間から離れて歩み寄ってきた。差し出された手にわたしは手を重ねる。緊張のせいでわたしの指先は少し冷たくなっている。落ち着いて、あれほど練習したじゃないの。
緩やかな演奏に合わせて魔法使いが魔女を抱いて踊り始める。湖岸に寄せるさざ波のように揺れる淑女のドレス。ソフィアは今回のことで昇進したホルスト大尉と踊り、ファウスト大尉もお似合いの魔女の手を取った。
銀糸の刺繍が燕たちの長い裾を飾っている。水晶灯の煌めきの下、掲げられた腕をくぐり元の位置に戻ってきた。あなたの前に戻ってきた。窓から夜風が連れてくるのはどこか懐かしい花の香り。いつまでも忘れることのない香り。
涼やかな夜空には星々が咲いている。彼がわたしに囁いた。
「天候の話は省略するぞ」
わたしは肩を震わせて下を向き、「やっぱりここで笑うのか」と彼はぼやいた。
[完]
どうせならば俺の手を 朝吹 @asabuki
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