雨が連れてきた偽の恋人

久里

雨が連れてきた偽の恋人

 そういえば、教室に傘を置きっぱなしにしてきちゃったな。雨降ってるし、取りに戻らないとダメじゃん。

 ローファーから再び上履きに履き替えて、二年一組の教室へと逆戻りする。

 廊下の窓ガラスを叩く雨粒の音にまぎれて、ため息をついた。

 はあ。私って、なーんか抜けてるんだよね。まぁ、家に帰る前に気がついて、まだ良かったと思うしかないか。

 胸にも小さな雨雲を広げながら、教室のドアを遠慮なく開いたら、ドキッした。

 誰も残っているわけがないと思いこんでいた教室に、人影があったから。

 彼――宮原みやはら奏音かなとは、窓際の一番前の席に座って、雨が降りしきる校庭をぼんやりと眺めていた。

 指通りの良さそうな、色素の薄い髪。座っていてもわかる、顔の小ささ。背もすらりと高くて、モデルさんみたいなんだよね。

「はあ……。どうしたものかな」

 彼から、憂うつそうな吐息がこぼれる。

 宮原くん、私が教室のドアを開いたことにも気がついていないみたい。

 どうしよう。

 見てはいけないものを見てしまったようないたたまれさなで立ち尽くしていたら、彼がゆっくりとこちらへ振り返った。

 切れ長の瞳と、ばっちり視線が交差する。

 ドキンと、心臓が飛び跳ねた。

「ん……? ああ、木田きださんか」

「あっ! え、えとっ、なんか、邪魔しちゃってごめんなさい……! そのっ、私っ、傘、取りにきただけでっ」

 あああ〜っ私のバカバカバカッ! 慌てることないのに、宮原くんから苗字を認識されていた驚きと恥ずかしさがないまぜになって、ついパニックに……!

 思いがけずクラスのアイドル的な立ち位置の彼と会話できてしまって顔が熱くなる。なんという棚ぼた、神さまありがとう! 

 心臓バクバクの私とは対照的に、宮原くんの表情は凪いだままだ。基本クールなんだよね。

「そっか。なんか、驚かせてごめんね」

「ううん、私が勝手にビックリしただけだから! みんな、部活に行っているか、帰ったかだと思って」

「部活、ね」

 そういえば。

 宮原くん、今日は部活に行かないのかな。

 たしか、吹奏楽部だったはず。

 放課後の空き教室で練習しているのを、何度か見かけたことがある。

 パートは、彼のまとう上品な空気感にぴったりのフルート。これが本当に絵になるんだよね。

「参加はしたいんだけど、実は、その吹奏楽部のことでちょっと困ってて」

「そう、なんだ……?」

「うん。話、聞いてくれたりする?」

「も、もちろん! 私で良ければ、ですけど……」

「ありがとう。ここだけの秘密にしてもらいたい話なんだ、もうすこしこっちに来てもらえるかな」 

 後ろ手に教室のドアを閉めて、宮原くんの席の方へと近づいた。

 う、うわぁなにこれなにこれ。偶然とはいえ、放課後の教室に二人きりなんて少女マンガみたいなシチュエーションだ。ドキドキする。

 宮原くんは、近づいてきた私をまっすぐに見つめながら、尋ねてきた。

「ねえ、木田さん。突然だけど、木田さんは、誰かと付き合ったりしている?」

「付き合う? 誰とも付き合ったりはしてませんけど……って、えっっ⁉」

 な、なんでそんな質問を⁉

 むせそうになった私に、宮原くんはそっと首をかしげた。

「そうなんだ。じゃあ、オレの彼女のフリをしてほしいって言ったら、困る?」

 木田きだ詩織しおり。高校二年生、十六歳。

 クラスでもほとんど異性と話さない(※話したとしても事務的な会話)系女子である私に突如舞いこんできたのは、クラスのアイドル宮原くんの偽の恋人というとんでもない大役でした。


✳︎


「うまくやってくれてありがとう。椎名しいな先輩は、オレたちが付き合ってるってちゃんと信じたと思うよ」

「わ、私は、ほとんどなにもできてないと思うけど……。ぜんぶ、奏音くんがとっさに対応してくれてたもん」

 私が、宮原くん――奏音くんから、彼女のフリという大役を授かったのが六月初旬。

 二週間前のあの雨の日、依頼を断るという選択肢もあったのかもだけど、私は頷いていた。

 彼が雨の校庭に向けていた憂うつそうな表情の理由を知りたくて。私に務まるのかという不安以上に、放っておけない気持ちが勝ったから。

「でも、詩織にお願いしたから、自然に振舞えたんだと思う。本当にありがとう、感謝してる」

 夕陽に照らされた控えめな笑顔が、きらきらと輝いて見えて。

 無邪気な笑顔に、心臓が、痛いくらいに収縮する。

 この二週間で、奏音くんのことを、たくさん知った。

 まず、同じ吹奏楽部の椎名先輩に告白されて、困っていたこと。

 半年前に一度断ったんだけど、彼女がいないならやっぱり諦めきれないからってもう一度告白されたんだって。その先輩、ずいぶんと行動派だなぁ。

『椎名先輩は、フルートの先輩なんだ。楽器の腕も、先輩としても尊敬しているし、部員として気まずくなるのは避けたかった。だから、思わず、いもしないのに『彼女できました』って言っちゃって……』

『な、なるほど……。意外だなぁ』

『えっと、どのあたりが?』

『彼女、当然いるのかと思ってました。宮原くん、モテるでしょ?』

 同じ吹奏楽部員が、今後の活動のことを考えて、中々当たって砕けにいけないのはわかるとして。宮原くんが誰それに告白されていたという噂は、そういう話に疎い方の私の耳にも入ってきていた。そして、全部すげなく断ってしまうとも聞いていたから、てっきり中学時代ぐらいから付き合っていて、大事にしている子でもいるのだとばかり……。

『彼女は、いたことないよ。フルート吹いてるほうが楽しいし、正直、恋してるって感覚にもあんまりピンとこなくて。付き合っても好きになれなかったら申し訳ないと思ってしまうんだ』

 付き合ってみたら、好きになるかもしれない。

 付き合ったところで、好きになれないかもしれない。

 正解はないし、行動してみないと結果はわからないものだ。でも、後者を選ぶ宮原くんは、誠実で慎重なひとなんだろう。

『なんだか、宮原くんに親近感がわきました』

 ぱちぱちと瞬きをして、きょとんと私を見上げる彼の顔は、いつもより幼く見えた。

『そう? この話を誰かにすると、大抵はつまんない奴って言われるよ。とりあえず付き合ってみれば良いのにって意見が大半』

 まぁ、特に宮原くんと付きあってみたい女子からしたら、面白い話ではないんだろうけど……。

『でも、付き合ってみて好きになれなかったら申し訳ないなって、私でもきっと思うから。あっ、えと……、宮原くんと違って、告白された経験とかはないですけど』

 しどろもどろにつけ加えると、彼は、そっと微笑んだ。

『やっぱり、木田さんに頼んでみて良かった。じゃあ、手始めにこれからは、オレのことを名前で呼んでくれる?』

『え!? え、えと……、フリをするなら、その先輩の前でだけで良いのでは』

『極論を言えばそうなるけど、あまりぎこちなかったら、きっと嘘だって見透かされる。椎名先輩、そういうの察し良さそうだし、万全を期しておきたい。オレも、名前で呼ぶからお願い。ね、詩織』

 っっ~~~!

 宮原くんの唇から紡がれる、自分の名前のときめき破壊力! っていうか、さりげなく下の名前も覚えていてくれたんだ……! やばい、動悸までしてきた。

『わ、わかりました……。か、奏音、くん?』

 いきなり呼び捨てはあまりにもハードルが高くて、難しかったけど。

『なんか、不思議な感じ。名前で呼ばれると、ドキドキするね』

 奏音くんが浮かべたやさしい笑みに、血が沸騰するかと思うほど身体中熱くなった。

 それから、私たちは付き合ったことがない者同士、椎名先輩に本当だと信じてもらうためにもカレカノっぽい行動を取ってみた。

 昼休みに、食堂で一緒にご飯を食べたり。

 放課後、彼の部活がない日に、一緒に帰ってみたり。

 おかげで、クラスでも『宮原くんと木田さんが付き合いはじめた!』なんて噂が飛び交いはじめて私はヒヤヒヤしたのだけど、当の彼は意にも介してなさそうな態度で……、それはそれで複雑だったり。私との関係は、椎名先輩に信じてもらうことさえできれば終わりだから、気にしてもしょうがないって思ってるのかもだけど。

 ひそかに落ちこんだりしつつも、奏音くんの話を聞くのは、楽しかった。

 フルートを弾きはじめたのは中学生の時から。

 最初はサックスに憧れていたけど、志望者が多くて、パート決めじゃんけんの時に負けたらしい。だけど、今ではあの時にじゃんけんに負けて良かったと思うほど、フルートを吹くのが好きなこと。

 実は、少女マンガにはまっているという話はかわいかったな。小学生の妹に薦められたのがきっかけだったけど、今ではこっそり自ら買いにいくほどだって言ってたし。私も同じ先生が好きだったから、すごく盛り上がった。

 私からすると、ぜんぶ夢のような時間。

 話していると楽しくて、やさしく微笑まれるとふわふわとして、ただのフリなのにこんなに浮かれている自分が恥ずかしくもなる。

 いつの間にか、彼に対してだけは、異性に敬語で話すいつもの癖も抜けていた。

 ずっと、こんな時間が続けば良いのに。

 ぜんぶ、今日で終わっちゃうんだよね。

「詩織? どうかしたの?」

 今日、そもそもの発端の椎名先輩と、お昼休みにたまたま遭遇した。

 食堂で奏音くんと一緒にいる私を見て、凛とした顔だちの女の先輩が『その子が、例の彼女? その話、本当だったんだ』って驚いたように目をまるくしていて。

 思いがけず本番がやってきて、動揺のあまりポンコツなロボットみたいに固まった私の肩に、奏音くんはそっと手を置いた。

『はい。かわいい彼女でしょ?』

『うっわ……。のろけられた、ムカつく』

『ごめんなさい。浮かれて、つい』

『ふーん。いつも無表情がデフォなのに、彼女といるときは、そんなにゆるんだ顔をするのね』

 わ。わわっ。奏音くんの、手がっ、私の、肩に、ふれ、ふれ……っ!

『オレ、そんなにだらしない顔してます?』

『してる。はぁ……こんなに溺愛してる彼女がいるなら、振られても仕方ないかぁ』

 で、溺愛! いや、そもそも付き合ってないし、ぜんぶ演技なんですが……。先輩のさびしそうな顔を見ていたら、本当のことを打ち明けたくなるような罪悪感が募る。

 なにか言いつのろうとした奏音くんを制して、椎名先輩は笑った。

『あー、言い訳は聞きたくないから。彼女と仲良くしてるってよくわかったし、三度も振らないでよね! あと、部活ではこれからもよろしく』

 先輩、今は笑ってみせているけど、一人になったら泣くんじゃないかな。

 去っていく後姿を眺めながら、今さら彼の偽の恋人になるということの意味をちゃんと理解した気がして、胸がちくりと痛んだのだった。

「ねえってば。詩織、話聞こえてる?」

「わっ! え、えと……」

 いけない。怒涛の二週間を振り返って、ボンヤリしすぎてしまった。

 もうすぐ、駅につく。

 奏音くんとは反対方向の電車に乗って帰るから、ここでお別れだ。

 私は、彼の望みを叶えた。椎名先輩も、当分はちょっかいをかけてこないだろう。つまりは、私たちが恋人同士のように振舞う理由も、もう特に残っていないということだ。

 明日からは、ゆるやかな速度で、ただのクラスメイトに戻っていくんだろう。

 どうしてだろうなぁ。

 夕陽のオレンジ色がやけに瞳に沁みて、なんだか、今にも泣きそうだ。

 泣いちゃダメだ。

『彼女は、いたことないよ。フルート吹いてるほうが楽しいし、正直、恋してるって感覚にもあんまりピンとこなくて。付き合っても好きになれなかったら申し訳ないと思ってしまうんだ』

 追い打ちのように、二週間前の彼の言葉が蘇る。

 今さら、本当に好きになっちゃったなんて言えない。

 重くは、なりたくない。

「かな……、いや、宮原くん。二週間、私の方こそありがとうね。最初はびっくりしたけど、いろんなことを話せてすごく楽しかった」

「えっ?」

「先輩もすっかり信じてたみたいだし、きっと、しばらくは安心できるよ。じゃあ、また明日、学校でね」

 湿っぽい空気にならないように、取り繕った笑顔で手を振って、急いで背を向ける。そうでもしないと、涙を見られてしまいそうで怖かった。

 でも――、急激に手を引っぱられて、体勢が崩れる。

 ⁉

「なにそれ。……全部、終わったみたいな言い方じゃん」

 最初なにが起こったのかよくわからなかった。

 制服ごしに、彼の温もりが背後から伝わってくる。

 えっえっ? 私、もしかして……、宮原くんに抱きしめられてる⁉

 状況を理解した瞬間、耳までぶわっと熱くなる。だって、誰が通るかもわからないこんな公衆の面前で!

「急に、ごめん。嫌だったら、つき放して」

「えと、その……」

「それとも、嫌じゃない?」

 っっ~~! こっちこそ、なにそれ。すっごく、ずるい聞き方だ。

「……その、やめてください。こういうことされると、勘違いしそうになるんで」

「勘違いじゃなかったら、いいの?」

「は?」

 宮原くん――いや奏音くんは、私を抱きしめる腕にギュッと力をこめた。

「詩織と話すの、すごく楽しいよ。オレ、普段そんなに喋らない方なのに、聞き上手な詩織にはつい話しすぎるんだ。もっと話していたい。少女マンガみたいな恋に憧れてるところも、かわいい。今は、詩織のことをもっと知りたいって思っているんだ。これは、きっと好きって気持ちなんだと思う。詩織にとって、この気持ちは迷惑なもの?」

 これ以上にないほどのドストレート!

 真摯に、自分自身の気持ちをたしかめるように放たれたその言葉の火力はあまりにも高くて。制服越しに、鼓動の音が聞こえちゃうんじゃないかってぐらいドキドキする。いや、ドキドキを超えて、もうクラクラしているかも。

「ありがとう、すごく嬉しいです。私も、同じ気持ちだったから」

「そっか。じゃあ、フリはやめて、本当に付きあってくれる?」

 声色が弾んでいる彼には申し訳ないけど、私の不安は完全には消えてなかった。

「でも……、奏音くんは迷惑じゃないの?」

「なにが?」

「モテるのになんで私なんかと付き合ったんだろうって、周りには思われるだろうし……」

 すこしの間があった。

 それから、不思議そうに尋ねられる。

「詩織って、自分のこと、どう思ってるの?」

「どうって……、地味で、面白くもないし、奏音くんとは到底不釣り合いというか……」

「…………ふーん」

「な、なにその反応⁉」

「いや。そのまま勘違いしてくれていた方が、オレには都合が良いかなって」

「は?」

 わけもわからず首をひねっていたら、くすくすと楽しそうな笑い声が落ちてきた。

「みんな、詩織が高根の花すぎておいそれと話しかけられなかっただけだと思うよ。でも、その高根の花はもうオレがもらっちゃったけどね」

【完】

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