胸の中の石の鳥

朝吹

 

 

 叔母は四十代で亡くなった。自死だった。突発的な自殺だったようで身辺整理もしておらず、独り暮らしだった叔母のマンションは浴室乾燥機にかけていた洗濯物もそのままだった。

 二ヶ月が過ぎる頃、遺品としてわたしの手許には宝石箱が届けられた。オルゴール付の古ぼけたものだ。塗料の剥げた蓋を開くと、ドビュッシー『夢想』の音色と共に小指ほどの大きさの和傘をさした日本人形がくるくると踊った。

「普通はバレエ人形じゃないの」母に訊いた。

「日本土産として作られた品じゃないかしら。ほらここに、『Made In Occupied Japan』の印字。ひいおじいちゃんが通訳として米軍基地で働いていたから、その関係かもね」

 遺品の遺品というわけだ。

 あの人たちは天才なのよ。

 国際ピアノ・コンクールの本選を録画で観ていたわたしの背中に、ぽつりと叔母が云った。叔母は当時、ホテルのラウンジでピアノを弾いていた。


 

 天才も現在では随分とカジュアルダウンして、日常的には「すごい人」くらいの意味だ。どんな学校にも天才と呼ばれる子がそれぞれの分野にいたはずだ。算数、漢字、お絵描き、縄跳び。

 天才と綽名されることを厭わない子は総じて負けん気が強かった。誰かが手作りのクッキーを焼いて友だちに配れば、「わたしならばその上をいく」とばかりにさらに美味しいクッキーを翌日焼き上げる。この際、前者の感情を害していようがまったく気にしない。むしろ蹴散らすために立派なクッキーを持ってきて、堂々と配った。

 

 天才は競争心が強く、目的意識と向上心がある。この世の栄華は全て独占しなければ気が済まぬとばかりに、常に最新情報にアンテナを張り巡らせて、本人も倦まず弛まず努力する。

 疲れそう。

 それはわたしのような凡才の想うことだ。非凡な人のエネルギーは疲れを知らず、その差は紙コップに注いだ湯と原子炉くらいある。好機や人脈を見つけると猪の如く突進して貪欲に吸収していくのだ。


 叔母はピアノが巧かった。音大出なのだから当然だが、叔母のピアノはどの音も、星の雫のように澄んでいた。

 ところが叔母はこちらが聴き惚れていても時々ぱたりと手を止めた。困ったような顔で叔母は譜面を見つめて、しばらく動かないのだ。「音楽の庭に行けない」と叔母は嘆いた。


 天才とは屈しない人のことだ。素材の良さの上に努力を積み重ねることで羨望の存在へと変貌していくカリスマ。その努力にしても、破裂しそうな心臓でばたばたと翼を上下させているわたしのような小物とは塔載エンジンからして唸りが違う。彼らはひとたび大空を睨むや否や、力強く空を飛ぶ。行動力抜群で、攻略ゲームのように地盤を固めて才も名声も手にするのだが、叔母の死後、地元の音大に進んだわたしは、そんな天才諸君には極力近寄らないようにしていた。

 クッキーを粉砕されて何ともいえない顔をしていた者の動かない校庭の影に、わたしの気持ちの目盛りが少しだけ多めに傾いていたからだ。


 叔母にとって音楽は競うものではなかったが、わたしも叔母と同じで誰かがクッキーを焼いていても、梅干しでも舐めながら「クッキーか、いいなぁ」そんな方向にしか頭がはたらかない。

 すると音大の同期は声を揃えて云うのである。

 趣味で弾いているのならば家の中で閉じこもって弾けば? 本当は認められたいくせに。人間は社会的動物で、他人からの評価があってはじめて自分の価値が決まるのよ。

 いやそうではなくて。

 喉から出かかるのだが、「そうではなくて」以下がゼロか百かに受け取られてしまい人に通じたことがないので言葉を失ってしまう。システマティックな手順で輩出される多くの天才。

 一流のピアニストになりたくないの?

 聖林の手形のごとく生きた証を遺したいと切望する者たちの、あの迷いのない宣言をきくと、ぞわりとする。おそらく自分ではどうしたいのかを真剣に考えるよりも先に、眼の前の有様をひいた視点で眺めていたせいだろう。

 調子を外す子がいれば、「わたしはあんな失敗はしない」と口に出して勝ち誇る。他人のミスは自分の幸福と晴れ舞台。そんな大勢の音大生の中で、ピアノの音色すらも利害ありき自己顕示欲ありき、ただの作業と化していく修練、格差と順列の中に投げ込まれてしまった叔母は精神を病み、音との繋がりを見失って音大を中退した。


 死んだ鳥の唄。たまに無性に鍵盤に向かって肩を落としていたあの叔母の、彷徨うような羽ばたきが聴きたくなる。遠からん者は音にも聞け近くば寄って目にも見よと云わんばかりの勢いのいい足跡に比べ、叔母は羽根のいちまい、靴下の痕すらこの世には遺せなかった。

『あなたの叔母さんはこのオルゴールが気に入って、幼い頃はいつも耳をつけていました。音の世界に入りたいと云っていたことを想い出します』

 遺品に添えられていた親戚からの手紙。

 骨董品のオルゴールはいつの間にか壊れてしまい、函に耳をつけて螺子を巻いても鳴らなくなった。



[了]

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胸の中の石の鳥 朝吹 @asabuki

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