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「瑠唯」

「なに?」


 頭一つ高い朔の顔を、瑠唯は見上げた。彼は海を向いたまま呟いた。


「ここから博多まで、一時間ちょっとなんよ」

「知ってる」

「遊びに行きたいとか思わんの?」


 遠ざかる船影を見ながら、彼はこちらを向いてくれない。瑠唯の答えがどう返ってくるか、緊張して待っているふうだった。


「たまにはね。でもどうして?」

「行ってきたって、いいんやないの。いない間は、俺も手伝えるし」


 瑠唯は、努めて取りすました朔の横顔を、食い入るように見つめた。凝視されていると確実に知っているのに、朔はあくまでフェリーを見やったままだ。


「ずいぶん優しいね? 朔ちゃんにも仕事があるのに」


 目を見据えたまま彼ににじり寄ると、朔が不本意さをにじませて、一瞬こちらを見た。


「下心が、あるけん」


 すぐにふたたび視線をそらした朔は、わずかに頬を赤く染めていた。瑠唯はあっけに取られたものの、不意に温かい何かが胸を突き上げるのを感じた。それは、喉まで駆け上ってきて、笑いとなって溢れ出た。


「そんなに、笑わんでも」

「ごめん。なんだか、可愛かったから――ああ、でも嬉しいんだよ、本当に」


 拗ねたような顔の朔を、瑠唯は肘でこづいた。


「朔ちゃんがそんなこと言うって、知らなかった」


 目を伏せた朔は、ぼそりと呟いた。


「せからしか」

「ごめんってば。でも、そうだなあ」


 先日断ったばかりの、友人の結婚式の日程を思い返した。まだ半年以上先だ。そのあいだに、朔にゲストハウス業の段取りを伝えることは、充分に可能だろう。きっとできる。


 結婚式に招かれることそのものが、長いこと恐ろしかった。以前は和やかに祝福できた幸せな門出が、目を背けたいものになってしまったから。伸ばした手の先に触れそうだった幸福が、自分の前から雲散霧消してしまった。


 でも、東京から遠く逃れて――今では、逃げてきたのだとはっきり認めることができた――いても、彼はそばで見守ってくれていたのだ。そう思うと、どこにも味方がいないと怯えていた気持ちが、安らかに薄れていくのを感じる。今はもう、彼の魂はここにいないと知っていても。


 壱岐での仕事に道筋がつくまで、でうすの一仕事が終わるまで、朔と重大な秘密を共有するまで、彼は瑠唯を見てくれていた。控えめに言って、充分すぎる。もうそろそろ、自分の足で歩いてしかるべきだ。たとえば、東京まで。


「春に、友だちの結婚式に行きたいの。壱岐からだと一泊じゃすまないけど、頼んでもいいかな?」

「うん」


 朔の口調はぶっきらぼうながらも、確かだった。


「行っても良か」

「ありがとう。それまでに色々、伝授するよ」

「うん――それで、訊きたいことがあって」

「何?」

「あの猫は最後に、何言いよったん」


 はて、と瑠唯は記憶を手繰った。最後に、でうすが渚で耳打ちしてくれたことだと思い至る。


「声が遠くて、聞こえんくて」

「正直、いまいち意味がわからなかったんだけどね。月読に、中つ国は良いところだとあらためて伝えてやろうか、って」

「――はあ」


 意外にも朔は、驚きはしなかった。むしろ、妙に納得した表情を浮かべる。


「どういうことか、わかるの?」

「日本の死生観では、魂はまた蘇るんよ。仏教が入ってくる前の考えかたでは。黄泉の国に行って、中つ国が良いところだと神様に言えば、別の体になってまた中つ国に送られる。魂がもう一度生まれてこられるように、でうすが計らってくれるってことやない」


 月読命は、黄泉の国を司る神でもあると、朔は言っていた。


「そうなんだ」


 彼や、喪ったもう一つの魂に、また会えるだろうか。会えてもきっと、以前の姿や性格とは違うかもしれない。でも、一度は別れた魂の道が、その先にも続いていると思えることは、深い奥底で瑠唯の心を慰めた。


 自分を長く見守ってくれた魂と、またどこかで会えるかもしれないのだから。


「でうすの声は、ずっと瑠唯にしか聞こえなかった?」


 晴ればれとした顔で海を眺めていた瑠唯に、朔がもうひとつ尋ねた。


「うん。聞こえたのは朔ちゃんだけ。あと、マリアもか」

「他のお客さんは?」

「私がでうすに話してても、変なオーナーだなとしか思ってないはず」

「奈津ばあちゃんも?」

「聞こえてたら、あんなに穏やかに暮らせてないと思う」

「じゃあ何で、俺には聞こえたんやろうね」


 訊かれるまでもなく、不思議なことだった。でも、彼に声が聞こえたおかげで、否応なくひとつの秘密が共有され、独りにしておいてほしかった気持ちが姿を変えていた。亡くなった彼と、また一つ遠くなる気がして寂しいけれど、その変化はとても、瑠唯の心を落ち着かせてくれた。


「わからない。でも、いつかわかるかもね」


 まばゆいほどの日差しの中で、朔はわずかに眉をひそめた。けれど少しも、嫌そうではなかった。

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【完結】猫は神の洲にまどろむ 丹寧 @NinaMoue

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