2
「瑠唯」
「なに?」
頭一つ高い朔の顔を、瑠唯は見上げた。彼は海を向いたまま呟いた。
「ここから博多まで、一時間ちょっとなんよ」
「知ってる」
「遊びに行きたいとか思わんの?」
遠ざかる船影を見ながら、彼はこちらを向いてくれない。瑠唯の答えがどう返ってくるか、緊張して待っているふうだった。
「たまにはね。でもどうして?」
「行ってきたって、いいんやないの。いない間は、俺も手伝えるし」
瑠唯は、努めて取りすました朔の横顔を、食い入るように見つめた。凝視されていると確実に知っているのに、朔はあくまでフェリーを見やったままだ。
「ずいぶん優しいね? 朔ちゃんにも仕事があるのに」
目を見据えたまま彼ににじり寄ると、朔が不本意さをにじませて、一瞬こちらを見た。
「下心が、あるけん」
すぐにふたたび視線をそらした朔は、わずかに頬を赤く染めていた。瑠唯はあっけに取られたものの、不意に温かい何かが胸を突き上げるのを感じた。それは、喉まで駆け上ってきて、笑いとなって溢れ出た。
「そんなに、笑わんでも」
「ごめん。なんだか、可愛かったから――ああ、でも嬉しいんだよ、本当に」
拗ねたような顔の朔を、瑠唯は肘でこづいた。
「朔ちゃんがそんなこと言うって、知らなかった」
目を伏せた朔は、ぼそりと呟いた。
「せからしか」
「ごめんってば。でも、そうだなあ」
先日断ったばかりの、友人の結婚式の日程を思い返した。まだ半年以上先だ。そのあいだに、朔にゲストハウス業の段取りを伝えることは、充分に可能だろう。きっとできる。
結婚式に招かれることそのものが、長いこと恐ろしかった。以前は和やかに祝福できた幸せな門出が、目を背けたいものになってしまったから。伸ばした手の先に触れそうだった幸福が、自分の前から雲散霧消してしまった。
でも、東京から遠く逃れて――今では、逃げてきたのだとはっきり認めることができた――いても、彼はそばで見守ってくれていたのだ。そう思うと、どこにも味方がいないと怯えていた気持ちが、安らかに薄れていくのを感じる。今はもう、彼の魂はここにいないと知っていても。
壱岐での仕事に道筋がつくまで、でうすの一仕事が終わるまで、朔と重大な秘密を共有するまで、彼は瑠唯を見てくれていた。控えめに言って、充分すぎる。もうそろそろ、自分の足で歩いてしかるべきだ。たとえば、東京まで。
「春に、友だちの結婚式に行きたいの。壱岐からだと一泊じゃすまないけど、頼んでもいいかな?」
「うん」
朔の口調はぶっきらぼうながらも、確かだった。
「行っても良か」
「ありがとう。それまでに色々、伝授するよ」
「うん――それで、訊きたいことがあって」
「何?」
「あの猫は最後に、何言いよったん」
はて、と瑠唯は記憶を手繰った。最後に、でうすが渚で耳打ちしてくれたことだと思い至る。
「声が遠くて、聞こえんくて」
「正直、いまいち意味がわからなかったんだけどね。月読に、中つ国は良いところだとあらためて伝えてやろうか、って」
「――はあ」
意外にも朔は、驚きはしなかった。むしろ、妙に納得した表情を浮かべる。
「どういうことか、わかるの?」
「日本の死生観では、魂はまた蘇るんよ。仏教が入ってくる前の考えかたでは。黄泉の国に行って、中つ国が良いところだと神様に言えば、別の体になってまた中つ国に送られる。魂がもう一度生まれてこられるように、でうすが計らってくれるってことやない」
月読命は、黄泉の国を司る神でもあると、朔は言っていた。
「そうなんだ」
彼や、喪ったもう一つの魂に、また会えるだろうか。会えてもきっと、以前の姿や性格とは違うかもしれない。でも、一度は別れた魂の道が、その先にも続いていると思えることは、深い奥底で瑠唯の心を慰めた。
自分を長く見守ってくれた魂と、またどこかで会えるかもしれないのだから。
「でうすの声は、ずっと瑠唯にしか聞こえなかった?」
晴ればれとした顔で海を眺めていた瑠唯に、朔がもうひとつ尋ねた。
「うん。聞こえたのは朔ちゃんだけ。あと、マリアもか」
「他のお客さんは?」
「私がでうすに話してても、変なオーナーだなとしか思ってないはず」
「奈津ばあちゃんも?」
「聞こえてたら、あんなに穏やかに暮らせてないと思う」
「じゃあ何で、俺には聞こえたんやろうね」
訊かれるまでもなく、不思議なことだった。でも、彼に声が聞こえたおかげで、否応なくひとつの秘密が共有され、独りにしておいてほしかった気持ちが姿を変えていた。亡くなった彼と、また一つ遠くなる気がして寂しいけれど、その変化はとても、瑠唯の心を落ち着かせてくれた。
「わからない。でも、いつかわかるかもね」
まばゆいほどの日差しの中で、朔はわずかに眉をひそめた。けれど少しも、嫌そうではなかった。
【完結】猫は神の洲にまどろむ 丹寧 @NinaMoue
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