終章 猫一過

1

 郷ノ浦港の岸をゆっくりと離れるフェリーを、瑠唯は目元に手をかざしながら見送った。台風一過で、眩しいほどの快晴だ。紺碧に凪いだ海に、白い船体がまっすぐに波を立てて遠ざかっていく。


 ゆるいため息をつくと、瑠唯は背後の車のドアにもたれかかった。逸見と、そしてマリアを載せた船が去るのを見て、ようやく一連の出来事に区切りがついた気がした。


 昨日目を覚ました逸見は、いったい自分がなぜ壱岐にいるのか、理解していない様子だったらしい。らしいと言うのは、瑠唯たちが帰ってくるまでに、マリアが彼にあらかたの説明をしておいてくれたからだ。


 しばらく前からこのゲストハウスに滞在していて、台風のために滞在を一日伸ばしたこと、明日には博多港に渡れるであろうことを聞かされても、ぴんとこない様子だったと言う。荒天のなか屋外へ出て、ずぶ濡れになって帰ってきた――もとい、マリアに連れ帰られた――ことは、さらに腑に落ちなかったことだろう。


「終始驚き冷めやらぬ様子だったわよ」


 マリアは面白がる様子で瑠唯と朔に言った。


「大蛇のせいかしらね。それとも、見知らぬポルトガル人が流暢な日本語を喋ってたせいかな?」

「どっちもだろ」


 そっけない答えを返した朔に、マリアはすねた表情を作ってみせた。


「何日分かの記憶を失ったら、誰だって驚くでしょ」


 とはいえ、逸見自身が青嵐を予約した記録も残っているし、実際に島へ滞在したことも事実なので、彼は事態を懸命に受け止めようとしているようだった。戸惑いながらも、今朝は丁寧に礼を言ってチェックアウトし、郷ノ浦港への送りを瑠唯に依頼した。ひどく恐縮しながら車に乗り込み、フェリーターミナルでは音も立てずに降車し、そそくさとターミナルビルの中へ消えていった。


 瑠唯に並走してターミナルについたマリアは、逸見の姿を目で追いながら苦笑した。


「変なトラウマにならないといいけどね」

「本当に。せめて青嵐の口コミに怖いこと投稿しないでほしいな」

「そんなことしないんじゃない?」


 逸見の様子を見るに、マリアの言う通りと思われた。万が一そんなことが起こったとしても、それを補って余りあるほど、今は予約が増えている。なぜかフランスからの予約が急に入り始めたのだ。マリア曰く、『オンディーヌの恩返し』らしい。


「確かにね。どちらかと言うと、早くに忘れたいって様子だったし」


 瑠唯が肩をすくめると、マリアは瑠唯の脇に立つ朔を見上げた。


「そうそう。それに朔くんのこと、怖がってたから」


 今日、たまたま休みだったという彼は――おそらく嘘で、急遽休みをとってくれたであろうと薄々わかっている――、瑠唯の隣に仁王立ちして、ビルに入っていく逸見を見送っていた。


「昨日結局、ずっと瑠唯のそばにいて、圧迫感醸し出してたもんね」

「そうね?」


 すっとぼけた九州弁を返した朔は、確かに昨日、逸見がドミトリーに引っ込むまで青嵐にいてくれた。でうすと別れた瑠唯が気落ちしていないか、見守るためでもあったと思うけれど。


「そうよ。私はまた来るから、その時まで仲良くね。じゃ、また」


 軽やかに振られたマリアの手には、ガロの絵が鮮やかなスマートフォンケースが握られている。今朝、鶏が何も話さなくなったのを確かめ、一安心したところだった。


「待ってるよ。またね」


 こんな魔女なら大歓迎だな、と内心に呟いた。ガロという、やや意地悪な存在が必然的にくっついてくるにしても。


 逸見も、マリアも、ガロも、今となっては島を離れた。安堵か寂しさか、自分でも判然としないため息をつく。


「お疲れ」


 朔の低い声が、耳に心地よかった。口の端を上げて、彼を見上げた。


「ありがとう。今日だけじゃなく、いろいろ」

「いいんよ。また何かあったら言って」


 無理した様子を見せず、恩を売ろうともしない。当たり前のように言う横顔に、お手本のような九州男児だな、とひそかに独白する。


 同時に、マリアとゆうべ交わした会話を、何度目かに思い返す。気を失っていた間に何があったのか、彼女に訊かれて話したときのことだ。


「帰り道を照らしてくれた月は、新月だったの?」


 なぜか妙に念を押されて、瑠唯は不思議に思いながらも頷いた。


「うん。それがどうかした?」

「新月を古語で何て言うか、知ってる?」


 質問を質問で返され、意図がわからないままに瑠唯はかぶりを振った。


「知らない」

「朔だよ」


 呆気に取られて言葉のない瑠唯を、マリアはにやにやしながら小突いた。


 でうすは、月読命が瑠唯の帰りを手助けしてくれたと言ったが、実のところ朔が連れ戻してくれたのかもしれない。神は特定の人間を助けたりしないと、でうす自身が言っていたのだから。


 でも朔自身は、そのことに気づいていない様子だった。本人に自覚のないことにどう礼を言ったらいいか、考えを巡らしていると声がかかった。

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