8
「亡くなった魂も、お前が心配でおちおち黄泉に行けなかったのだろう」
でうすが呟いた。同情も感傷も挟まない声が、今はありがたい。心配そうな朔の視線も、今となっては恐ろしくなかった。少なくとも、誰にもわかってもらえないのだ、と瑠唯を絶望させるものではなかった。
「それでもって、お前と俺の言葉を仲立ちした。役割を終えて、魂は去ってしまったがな」
でうすの声が聞こえたのは、彼がそばにいてくれたからだった。瑠唯が気づかない間もずっと。
瑠唯は彼との思い出から逃れて、壱岐へやって来た。でも彼は、そんな瑠唯と一緒にいてくれたのだ。
「……そうか」
呟いた時、ずっと気づかなかった事実が胸を衝いた。辛い別れで終わった彼との記憶を、瑠唯は避け続けてきた。でも、彼が身体の死を迎えてなお、瑠唯を守ってくれた事実が、そこに続きを作ってくれた。そのことを思い出すのは、不思議ともう怖くない気がする。
それは、悲しみようのなかった喪失を少しだけ埋めてくれた。際限なく流れる涙を、止めようとは思わなかった。
「でも、そうしたら――」
朔がためらいがちに切り出したことだけが、心を新たに締めつけた。
「でうすとは、もう話せなくなるのか」
「ああ。すぐに俺の声は聞こえなくなるだろう」
当然のように答え、でうすはあくびをした。
「俺ももう、今回の務めを終えた」
それがでうすとの別れを意味することを、瑠唯は理解した。彼は務めがあったから、壱岐にやってきた。島を守り終えた今、ここにいる理由はない。
嫌だな、という素直な感想が頭をかすめた。壱岐で何の屈託もなく言葉を交わせた最初の人――いや、神か。その唯一の相手が、去ってしまう。
無駄だとわかっていながら、言わずにいられなかった。
「行ってほしくない」
「無理を言うな。俺が本来いるべきは高天原だ」
にべもない回答に、思わず笑みが漏れた。
「これから先、私は誰に憎まれ口を叩いたらいいの」
「そんなことは知らん」
はあ、と妙に軽快にため息が出た。わかっていたことだ。神の理も意志も、瑠唯が曲げることはできない。
だったら、なるべく無様でないかたちで、彼を見送りたかった。別れが否応なく訪れるものだということは、よく知っている。だったら、少しでも後悔のない向き合い方をしたい。寂しさが軽くならないと、わかっていても。
「どうやって帰るの?」
「来た道を戻るのだ」
「小島神社に?」
「うむ」
少しずつ元通り、頭や体に血が通い始めたようだ。瑠唯はもたれかかっていた朔の体から身を起こして、あたりを見回した。ずぶ濡れのボディバッグが、足元に置かれていた。手にとって中身を探ると、車のキーはさいわいずぶ濡れではなかった。
「送るよ。でうすの帰り道まで」
「ふむ」
でうすは満足そうに目を細めた。色の違う二つの瞳は、どちらも薄紅の夕日に染まっていた。
運転すると申し出た朔の厚意に、ありがたく甘えることにした。静かに頷いた彼の横顔は、少しだけ嬉しそうだったかもしれない。
昨日までの瑠唯だったら、自分でやると突っぱねていただろう。それに対して朔が淋しそうにしても、意に介さなかったと思う。放っておいてほしいという考えが、頭を支配していたから。
助手席で瑠唯は眠たげなでうすを膝に載せ、白い毛並みを撫でた。
でうすは頻繁に欠伸をし続けていた。彼の魂が、猫の体を離れようとしているためかもしれない。この小さな体が使えるエネルギーは、もうほとんど残っていないのだ。
「高天原ってどんなところ?」
初めての問いを差し向けてみても、でうすは答えなかった。
そりゃそうか、と小さく落胆の息をついた。ずっと、自分が何の神であるかすら明かしてくれなかったのだ。今さら、故郷の四方山話を聞かせてくれるはずがない。
「神だけが住むところだ」
だから、答えが返ってきてもすぐには認識が追いつかなかった。
「中つ国と違って、人や物の怪はいない」
車のエンジン音に紛れてしまいそうな声だった。爾自神社にいたときより、さらに聞き取りにくくなっている。
朔の大きな手が、視野の端で緩やかにハンドルを切った。
「死んだ人の魂は? いないの?」
「死んだ人間は、黄泉に行く。月読の縄張りだ」
朔が穏やかな声で補足した。
「黄泉は月読命が統べる領域と言われてるんよ。月黄泉と書くときもある」
「そうだったんだ。だから、黄泉で月が見えたんだね」
妙に腑に落ちて、瑠唯は誰にともなくうなずいた。車は国道から、畑の中を通る小道へと入っていく。低いコンクリート塀の向こうに、引き潮の内海と、そのなかに佇む小島神社が見えた。
「いい天気」
思わず呟いたのは、本心から、今まで見たなかで一番に美しい小島神社だと思ったからだ。
空は、鮮やかな染料を流したように淡い紅に染まっていた。その色は、ほとんど水の引いた小石だらけの地面にもほんのりと映り込んでいる。今はもっとも潮のひく時間だから、これからまた海水が満ちてくる。きっと海は、紅い鏡のように見えることだろう。
腕にでうすを抱いて、車を降りた。力なく伸びた肢体は、瑠唯の腕にしなだれかかっている。
「渚でおろせ」
うなずいて瑠唯はコンクリートの階段を降り、朔とともに浜へと向かった。スニーカーの底が、海水に湿った柔らかい砂を踏む。
「ここでいい」
眠そうなでうすだったが、いくらも小島神社へ近寄らないうちにそう言った。瑠唯が彼を地面におろすと、思いがけずしっかりと立った。
「なんで爾自神社じゃなく、ここから帰るの?」
「俺が帰るには、高天原の親玉の決裁がいる」
首を傾げると、朔が補足してくれた。
「小島神社の祭神には、天照大御神がいるから」
重そうな瞼を瞬きながら、でうすは頷いた。
「高天原を出るのなら簡単なのだ。どの神も自分で出られるし、武御雷がふざけて俺にしたように、他の奴を叩き出すこともできる。だが、入るのは色々と面倒だ。お前たち人間の入国管理行政と一緒だな」
確かに、出国手続きより入国手続きの方がずっと時間がかかる。妙なところででうすが人間に詳しいのがおかしかった。
「わかるけどさ。何、それ」
きわめて何でもない口調を、瑠唯は装った。でうすの声は、よほど集中していなければ聞こえないくらい遠かった。
もっと何か言いたかったが、妙に目頭が熱くなってしまう。瑠唯は、朔から顔を隠すようにしてでうすのそばに屈んだ。
「島を守ってくれて、ありがとう。おかげでみんな無事だったし――一緒に住んでくれて、楽しかったよ」
「お前も、氏神の導きのもととはいえ助けに礼を言う」
いささか尊大だが凛とした、いつもの口調だった。ただ、よく聞こえないだけだ。
名残惜しく思っていた瑠唯に、不意にでうすがまったく別の話を、そのとき耳打ちした。一瞬あっけに取られたものの、瑠唯は一も二もなくうなずいた。
「うん」
ごくかすかに目を細めると、でうすはのっそりと体の向きを変えた。小島神社を見据え、不思議なほど足音を立てずに歩き始めた。
白くなめらかな毛並みも、遠くに満ち始めた海と同じく、紅く染まっていく。でうすがゆっくりと進んでいくよりも、内海にふたたび潮が満ちるほうが速かった。
瑠唯はいつまでも立ち尽くして、でうすの後姿を見守っていた。小島神社にでうすがたどり着く頃には、満潮が白い猫を呑み込もうとしていた。彼が見えなくなるまで、二人はそこにいた。
不思議なことに、どれだけ待っても、猫の骸が波間に浮かぶことはなかった。ただ薄紅の波に迎えられた小島に手を合わせて、瑠唯と朔は、無言で渚をあとにした。
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