7

 目を覚ましたとき、温かい指が髪をなでていた。それが朔の手だとわかるまで、少しの時間を要した。


「瑠唯」


 薄くまぶたを開くと、ほっとしたような、縋るような声に名前を呼ばれた。ぼやけた視界に目を凝らすと、不安そうな顔がこちらを覗き込んでいる。


「気がついた?」


 近くから、マリアの声がした。意識が朦朧とする。そのうえ体が鉛のように重くて、頭を動かすことすらできなかった。どうやら車の後部座席に寝かされて、頭だけ朔の膝に載せられているらしい。首の後ろに、彼の体温を感じる。


 自分はまだ、生きているようだ。


「戻ってきたな」


 聞き慣れたでうすの声がする。妙に音量は小さかったが、なぜかほっとした。


「じゃ、私は例の彼を青嵐に連れて行くわ」


 マリアが運転席から顔を出し、薄い影が顔に落ちる。雨風はやんでいて、きれぎれに雲のたなびく空が、傾きかかった日に照らし出されていた。


 嵐は去ったらしい。


「大蛇の彼、気を失ったままなのよ。でうす曰く心配ないらしいから、とりあえず車に寝かしてる」


 窓の外に目をやると、車を置いていった月読神社の麓に戻ってきたようだった。業務用バンに瑠唯を、マリアのレンタカーに逸見を運び込んだらしい。

 でうすが再び口を開いた。


「しばらくすれば、自我を取り戻すだろう。それまで部屋に放っておけ」

「というわけで、行ってくるわ。説明はよしなにちょろまかしておくわ」


 うん、と言ったつもりが、声は出なかった。マリアは構わず歩き去った。ほどなくして車が発進し、遠ざかって行く音がした。


「大丈夫?」


 ぼんやりしたままの瑠唯に、朔が気遣わしげに尋ねた。


「うん」


 今度はなんとか、声が形になった。


「どこも痛くない? 苦しくない?」

「大丈夫」


 気遣わしげに髪を耳にかけてくれる朔の手付きは、子どもを撫でるように優しかった。でも、子どもに触れるときにはないであろう熱がある。


「もう動かしていいぞ。魂が戻ってきたからな」


 でうすが言うと、朔は神妙な顔で、だがほっとしたように息をついた。


「起き上がれそう?」


 うん、と言ったものの、実際は体に力が入らなくて、朔の助けが要った。上半身を起こしてシートに座り、朔に半身を預ける。肩を守るように抱いてくれる腕が温かい。


「寒くない?」

「平気」


 不思議なほど、寒さは感じなかった。燃えるような夕焼けが、梢を透かして見える空を照らし出している。


「お前は大蛇の尾に打たれたのだ。それで魂が、黄泉平坂まで飛ばされた」

「よもつひらさか?」

「黄泉の近くだ」

「黄泉」


 不勉強な瑠唯でも、死者の国ということはわかる。そのまま魂が戻ってこなければ、死んでいたかもしれないわけだ。


「向こうで目が覚めた時、奥に行こうとしたの。でも目印の光が遠くへ消えちゃって、月を見ながら帰ってきた」

「ははあ。お前の氏神も助けてくれたわけか」


 朔を見上げながら、でうすが感心したように呟いた。その声は妙に小さい。話し方はいつもと変わらないのに、音量だけが引き絞られているかのようだ。


月読つくよみが気を利かせたな。普段から、いろんな神と仲良くしておくものだ」


 どうやら彼は、月読命と仲が良かったらしい。

 瑠唯にはもうひとつ、気になることがあった。


「でうすの声が遠く聞こえる。なんでだろう」


 朔もうなずいた。


「俺もだ。何が起こってる?」

「声をお前たちの言葉に通訳している魂が、ここを離れたからだ」

「通訳?」


 そう言えば、高天原の言葉と中つ国の言葉は違うとか何とか、言っていた気もする。


「でも、だったら何でまだ話せてるの?」

「魂の残滓があるからだ。すぐに聞こえなくなる」


 何でもないことのように、でうすは答えた。


「もともと不思議だったのだ。今のお前たちと言葉は通じないはずなのに、話ができた。武御雷が、なぜか特に力のないお前と私を引き合わせた、その理由がわからなかった」


 特に力のない、というところで瑠唯は眉を顰めた。無力な人間なりに尽力したのに、言ってくれるじゃないか。


「魔切で戦ってあげたのに、ずいぶんな言いようね」

「すまんな。だが、高天原のことわりでいえば、お前は武御雷の稲妻を誘導したに過ぎない」


 ふうん、と瑠唯は不満半分に呟いた。


「それで、通訳は何の魂なの? 何でここにあったの」

「さっき見ただろう。お前に縁のある魂だ。生きているときは、知り合いだったはずだ」


 ひとつの直感が、瑠唯の脳裏でかたちを取りつつあった。ああ、そうか、と納得すると同時に、頬が涙を伝った。


「知ってた――山で死ぬまで」


 誰も驚かなかった。でうすはのんびりと欠伸をする。朔は静かに、瑠唯に視線を注いでいた。


「そやつはずっと、お前にくっついていたのだ。自分の役割を理解はしていなかったと思うが、ともかくも俺とお前とをつなげた」


 自分の感情に、理性が追いつかなかった。こみあげる思いが悲しいとも嬉しいともわからないあいだに、温かい涙が次々にこぼれ落ちていく。


「亡くなった山から、瑠唯のところへ来てたん?」


 朔が遠慮がちに訊くと、うむ、とでうすが返した。


 深いため息をつくと、一度は涸れたはずの涙がまた溢れた。涸れていたというより、流し方を知らなかった涙かもしれない。


 彼を喪ったとき、懐かしむ思い出も、話し合った未来の記憶も、たくさんあった。その一つ一つを思い返し、痛みを確認することは難しいことではなかった。あまりにも簡単すぎて、それは毎日のように襲ってきた。悲しみを分かち合ってくれるはずの彼は、すでにこの世を去っているのに。


 そっか、と朔が静かに呟く。


「辛かったんやね」


 否定も肯定もしないまま、瑠唯はただ朔に体重を預けた。誰にも全容を話せなかった想いが弛んでいく気がした。


 そんな事実を、なぜ朔の前ではさらっと口にしてしまったのだろうと思う。答えはほどなくして胸の中に浮かんだ。


 この人ならきっと、耳を傾けてくれる。瑠唯が話したくなるまで待ってくれる。話を聞いたら、助けようとしてくれる。そう思える相手だったから。


 だって実際彼は、瑠唯が突拍子もない事態に襲われていても、躊躇うことなく助けてくれたのだ。神の宿った喋る猫を探すという、他の人なら意味すらわからない状況下で。


 そして、彼以外の人間に事態を共有する気は、ついぞ瑠唯のなかに起こらなかった。ことの次第を聞いた人間が浮かべるであろうどの表情も、自分の求めているものではない気がしたから。


 いったいどうやって慰めたらいいのか、という困惑を向けられるのは、婚約者を亡くしたと告げる時だけで充分だった。この悲しみをどう癒したらいいかわからず、一番苦しんでいるのは瑠唯自身なのに。

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