6

 爾自神社は、細い山道を分け入った先にある。


 車で行けるのは途中までだ。朔は車道が狭くなる手前で、脇の草地に車を停めた。瑠唯は車から飛び出すと坂道を駆けあがった。背後から朔とマリアもついてきているはずだったが、足音も聞こえないほど風雨の音が激しい。


 走った先の分岐路を右手に曲がり、小さな鳥居のさきの石段を駆け下りる。上がってきた道を木立越しに見上げると、こぢんまりとした窪地のような境内に飛び込んだ。そこで待ち構えていた光景を目にして、瑠唯は足を止めた。


 蒼く巨大な蛇が、そこにはいた。


 吹きすさぶ風の向こうに、ほのかに青い光を放つ大蛇が、鎌首をもたげていた。両の目は昏く赤い。人よりはるかに太い胴を持ち、全長は自分の数倍ほどもありそうだ。


 蛇が歯を剥いているのは、樹上に絡みつく華奢な白い龍のような生きものだ。大蛇に比べれば輪郭は朧で、図体も小さい。猫であったときのたたずまいと似たものを感じて、でうすだと直感する。呼びかけようと口を開いた瞬間、短い足をとんと蹴って、龍が虚空へと跳躍した。


「でうす」


 呟いたとき、鋭く息を吐いた大蛇があぎとを開いて白龍に飛びかかる。龍は身をうねらせて牙をかわすと、喉を狙って相手に喰らいつこうとする。だが、そのたび大蛇の尾や頭に跳ね飛ばされ、攻撃がままならない。


 息を詰めて見守る瑠唯の前で、蛇と龍とが激しく互いに絡みつこうとしている。強い風雨のなか、雷鳴がしだいに音を大きくしていた。稲光が黒い空を割ったとき、ふいに一つの考えが瑠唯の脳裏に舞い降りた。


 いつのまにか脇に立った朔が、瑠唯の両肩を抱えるようにしていた。彼の腕のなかで、瑠唯はバッグの中に手を伸ばした。硬い革の容器は、鞄の中に染み通った雨でいくらか湿っている。


 そのなかから、なめらかな木を削り出した柄を取り出した。柄と同じ幅をもった魔切の刃は、その名の通り、禍つ物を島から切り離してくれるだろうか。凍えた手で、朔の手を肩から剥がす。


 大蛇の尾は、瑠唯から何歩も離れていないところでのたくっていた。胴と頭は今も、龍との交戦で空を切っている。その重みを支えながら、地面の上でじりじりと尾が震えている。


 何をするんだ、と問いたげに朔がこちらを見た。指を唇に当て、何も言わないよう目配せする。大蛇の目が完全にこちらから逸れていることを確かめつつ、瑠唯は蛇の体重を受け止めている尾ににじり寄った。大蛇どころか、龍のほうも瑠唯に気づいていない。


 蒼光りする鱗にじゅうぶんに近寄ったとき、瑠唯は息を止めて魔切を振りかぶった。そのまま刃を大蛇の肌に突き立てる。硬い手応えが一瞬あったのち、刀身は根本まで蛇の体に埋まった。


 大蛇は相変わらず龍とやりあっていたものの、尾の違和感に一瞬動きが鈍った。もがくように尾が虚空へと振り上げられ、後退の間に合わなかった瑠唯の体を弾き飛ばす。大蛇の集中が散逸した刹那を逃さず、龍が喉笛に喰らいついたとき、まばゆい雷撃もまた空から魔切へと駆けくだったのだった。


 荒れ狂う天を裂いた稲妻は、刃を伝って大蛇の身へと走った。電光が、縄のように蛇の体をがんじがらめにする。暗い赤色だった両眼が、鮮烈な苦痛を体現するかのように黒い光を帯びた。


 だが、雷が大蛇を打ちのめしたのかどうか、瑠唯は確かめることができなかった。龍の体が大蛇から離れたのを目にしたのと同時に、瑠唯の意識は暗い淵に突き落とされてしまったからだった。




 目を開けると、瞼の裏と同じ闇が待っていた。


 温かく快い泥の中を、漂っているようだ。手足は地面や壁にぶつかることはないが、落ちたり沈んだりする様子もない。


 力の入らない四肢を重力に任せ、ただ浮遊するのは心地よかった。なにも考えず、なにもしないでいられた。ずっとこうするのを望んでいた気がする。切実に求めていたことがあった気がするが、頭の中に霞がかかったようで、うまく思い出せない。


 気まぐれに目を開いたり閉じたりしていると、ふいに遠く小さな光が目に入った。淡く白い光は、またたきながらさらに遠ざかっていく。今まで弛緩していた考えが、突然緊張感を取り戻す。瑠唯は足に力を入れると、その場に立った。なかったはずの地面が、今は足の裏に存在していた。


 瑠唯が歩を進めても、蛍のように小さなその光は、遠ざかるばかりだった。じょじょに足を速め、走ってみても近づけない。


「待って」


 縋るようにつぶやき、駆け続けていると、小さな光は時おり瑠唯に近寄るような動きを見せた。でも、決して近くまで来ることはなく、じょじょに遠くへと進んでいる。


 光はやがて、明らかに追いつけないほど隔たってしまった。どれだけ走っても、息があがったり、足が痛むことはない。ならばと、必死で体を動かし続けた――それなのに。


 今や小さくなった光は、追い続ける瑠唯に向かって突然、数回瞬いたように見えた。まるで何かに、気づかせようとするように。


 瑠唯は、はたと立ち止まった。何を言おうとしているのだろう。思ったときに、光はさらに瞬いた。それでいい、と励ますかのような意思を、瑠唯は感じ取った。けれど、認めたくなかった。


 相手がどういう気持ちであれ、瑠唯は離れたくない。二人とも、離れたくてこれほど遠くにいるわけではないのだ。もう一度会えれば、今度こそ離れたりしない。


 でも、ひとたび立ち止まった瑠唯の足は妙に重くなってしまって、思うように動かなかった。


「行かないで!」


 そのあいだも遠ざかる光に向かって、瑠唯は叫んだ。


「行かないで」


 小さな光はとうに見えなくなり、今はかすかに残影を揺らめかせるのみだ。それもやがて、闇に消えていった。


 立ち尽くした瑠唯は、地面にくずおれるとしばし声を上げて泣いた。涙が頬を伝うたび、何かがとけて流れていく。最後にこれほど泣いたのはいつだろう、とぼんやり思う。ずいぶん久しぶりのような気もしたし、その実ずっと泣いていた気もした。


 何度目かに涙を拭ったとき、濡れた手を照らし出す淡い光があることに気づいた。先程消えてしまった光ではない。それよりももっと確かで、力強い。しかし眩しくはなかった。


 頭上を見上げると、白い月がある。漆黒の空を切り取るようにして、白銀色の弓のような新月が浮かんでいた。


 虚脱したように座り込む瑠唯を、月はものも言わずに見つめていた。さわめく月明かりは、瑠唯の輪郭を闇に浮かび上がらせている。生きた血肉をもった、温かい体だ。


 深く長く息をついて、瑠唯は立ち上がった。


 帰り道はわかっていた。


 月を目指して歩けば、それで良かった。

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