5

 爾自神社の境内は、山の斜面を登った先にある。延々と続くのぼり坂を折れ、今度は斜面を下る方向に伸びる道をゆくと、こぢんまりとした敷地にたどり着く。小ぶりな社殿は締め切られ、人影はない。叩きつける雨滴と強風から逃れるように、でうすは賽銭箱のかげに身を寄せていた。


 雲の中に巻き起こる風で、雷は起こる。だからなのか何なのか、高天原では武御雷とよくつるんでいた。人間も自分たち二人を一組として認識するらしく、風神と雷神を一緒に描いた絵などもあるらしい。武御雷が、いつかそう言っていた。


 出雲で大蛇がまた目を覚ましたらしい、というのは五十猛いそたけるが持ってきた噂だった。彼ら出雲の神々は、噂を持ってきたところで特にでうすを助けたりはしない。五十猛も例にもれず、報せに来ただけだった。どうやら壱岐へ向かうらしい、と彼は手がかりにもならない手がかりをつぶやいた。


「なぜ壱岐なのだ」


 でうすは、突如やってきた五十猛を見上げながら尋ねた。木々の神である相手は、じっさい大樹のような巨躯の持ち主だった。下げみずらに結った髪が、雨上がりの木の葉のような艶を放っている。


 その彼は、木のあるところであればどこにでも前触れなく現れ、消える。この日も、森の奥深くで涼んでいたでうすのもとに突然姿を現したのだった。


「大和や出雲の神々が、たくさん社を構えているからだそうだ」


 腹が立つほどのんびりした声で、五十猛が答える。深い森と同じ緑色をした目の奥で、遠い光が揺らぐ。


「あいつ、こないだは安芸あきで暴れて人間を痛めつけたからな」


 そんなこともあった。安芸から吉備にかけて、昨夏にとんでもない勢いの雨が降ったのだ。大勢の人間が命を落としたという。風神なので、水害に関してはあまり注意を払っていなかったが、大蛇が暴れたせいだと聞くと良い気はしなかった。


 少し前、伊勢湾界隈で大蛇が猛威を振るったときは、たいへんな思いをした。でうす自身が出動したはいいが、同じく風の神であり、しかも伊勢土着の伊勢津彦が、役目から逃亡して東へ去ってしまったのだ。


 古の時代に伊勢から追い出された彼を、わざわざ呼び戻してやったのに酷い仕打ちだ。おかげで、でうす一柱で対処しなければならなくなり、八岐大蛇との死闘となった。しかも、そこまでしても中つ国を大いに乱してしまったのだ。


「今度は、奴は神々の社を痛めつけたいらしい」

「相変わらずのねじ曲がった根性だな、あの蛇は」


 苦々しく思って顔を歪めると、肩に流した黒髪が胸の方へと落ちた。五十猛のようにみずらに結っても良いのだが、いつか武御雷に『中つ国では時代遅れらしい』とからかわれてやめた。


 五十猛は無表情に言った。


「人間の体にもぐりこんで、やってくるぞ」

「どんなやつなのか、細かく次第を教えてくれ。対応のしようもない」


 憎まれ口を叩くと、五十猛は不機嫌そうにした。


「人間の姿など、いちいち見ていない」

「役に立たんやつだ」


 五十猛は何も言わず、かき消すようにいなくなった。でうすは苦虫を噛み潰したような顔で、相手が今しがたまで立っていた空間を睨み据えていた。


「挑発するからだ」


 しかめ面のまま、でうすは樹上を見上げた。遥かな梢に、筋骨隆々とした若者が寝そべっている。華奢でしなやかな体躯のでうすと比べると、よけいに頑健に見えた。


「情報を聞き出したいなら多少は辛抱しろ」

「とろい奴は苦手だ。苛々する」


 武御雷に向かって、でうすは叫んでやった。雷神である彼と、風神である自分は、本来持つ性質のためか、頭の回転は速いほうだと思う。しかし、五十猛は木々の神の本質を体現しているのか、じっと静かにしていることだけが得意だ。だから大蛇の監視のために、いつまでも出雲に引きこもる役割を担えるのだろう。


「面倒だが、壱岐に行ってくる」

「一から探すつもりか? とんでもない手間だぞ」

「同情するなら手伝え」

「嫌だね。俺は高天原を出るのは面倒だ」

「酷い奴だな。俺だって好きで行くわけじゃない」

「ふむ」


 喧嘩っ早いでうすにも、武御雷は怒り狂うことはない。彼が荒れるのは、風が荒れることよりずっと少ない。


「ならばお前に、中つ国で動き回りやすい姿を用意してやろう。あと、俺の氏子を助けに遣わす」

「別にいい。馬かなんかに姿を変えれば、手っ取り早くあたりを見て回れるだろう」

「馬はやめておけ。お前は人間の世の移ろいに疎いのだから、俺に任せろ」


 でうすはむすっとした顔で黙り込んだ。確かに、人間の流行りすたりにはまるで詳しくない。高天原での暮らしには関係のないことだからだ。しかし、伊勢に顔を出したときに、一部の人間に大騒ぎされたのは事実だ。幸い、台風のなかで幻でも見たのだろうと本人たちが思ってくれたことで、大事にはならなかったが。


「そうだな、猫なんかがいい。馬よりずっと、人間たちに人気があるぞ」


 相手が含みのある笑みを浮かべているのに気づき、でうすは眉をひそめた。


「お前、面白がっていないか?」

「そんなことはない。健闘を期待している――級長津彦」


 言って彼は、携えていた刀子をでうすに向かって投げた。雷とともに剣の神でもある彼の力は、あまねく刃に宿る。


 足元に突き刺さった刀子に手を触れると、でうすの前から高天原の光景はかき消えた。代わりに現れたのは、朝焼けに染まる内海と、それを取り囲む陸地、水面に浮かぶ小さな島だった。


 自分の体に妙な感覚を覚えたのは、直後のことだった。異様に毛深くなった感触がする。手の感覚がおかしい。まるで、足が四本あるかのような奇怪な感触がする。


 直感は正しく、でうすは白い猫に姿を変えられていた。武御雷の悪ふざけにも困ったものである。すぐに出くわした人間の女は、どうやら彼の氏子だ。彼が助けに遣わした人間ならば、利用するだけ利用させてもらう、とでうすは決めた。


 だが、禍つ物、すなわち八岐大蛇は、なかなか見つからなかった。やっと正体に気づいたのは、オンディーヌとやらが話した内容を思い返したときのことだった。


 瑠唯に港で出迎えられたあの水の精は、車内の自分を見た瞬間に、ただの猫ではないと察した。それで後ほど、人目を盗んで話しかけてきたのだが、その時にふと呟いたのだ。


 ――もしあの時貴方が車に載っていなくても、瑠唯に移った気配で神の存在はわかったと思う。


 四六時中一緒にいた瑠唯に、でうすの気配がついてしまっていたのだ。さらに、オンディーヌが海辺で瑠唯にかけた言葉がひとつの道筋を描き出した。瑠唯に良い顔をして近寄ってきた人間と言えば、一人しかいない。月読神社の何とかいう男も最近よく現れるが、あれはどうやら瑠唯には避けられていた。


 でうすの存在に先に気づいた敵は、でうすに近しい瑠唯との距離を詰めようとしていた。


 瑠唯に事実を明かすことは、高天原の掟により叶わない。だから、ひとまず武御雷に氏子である瑠唯を守るよう頼んだ。決定的な何かが起こる前に、彼の助けが間に合っていればいいが。


 正体に気づけなかったあいだに叢雲の肥大化を許してしまい、今や嵐は手がつけられないほど強大になっていた。最後も藤原瑠唯を介して武御雷の力を借りる予定だったが、壱岐は只人を巻き込めないほど危険な状態にある。


 ひとりで大蛇を迎え撃とうと、でうすは爾自神社に身を潜めていた。大蛇は必ずやってくる。万難排して壱岐を蹂躙するために、どこかで必ずでうすを排除しに来るはずだ。


 大蛇を宿したあの男が現れたのは、日も傾きかかった頃だった。滲み出る物の怪の気配を、相手はもう隠す気もなくしたらしい。禍々しい空気を感じ取ると、でうすは地面に腹ばいになっていた体を起こした。

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