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「禍つ物があの客だったとして、そいつは一体何をするつもりなんだ」


 朔がもっともな疑問を発すると、マリアは窓の外に目をやった。


「多分この台風を、島が吹き飛ぶくらいの嵐に育て上げるつもりだよ。生きて帰れるか、私もわからない」


 マリアが嘆息しながら言った。激しくなる雨音が、急に不気味な響きを持って聞こえてくる。


「私なりに、瑠唯にヒントを与えたつもりなの。禍つ物が何なのか、そろそろ見当はついてるんじゃない?」


 瑠唯は昨日からのマリアの発言を思い返し、ほどなくしてひとつの結論にたどり着いた。


八岐大蛇やまたのおろち?」

「正解」


 複雑そうな笑みを浮かべながら、マリアはうなずく。


「近海じゅうから雲を集めてるのは、あの人だと思う。正確には、あの人に取り憑いた大蛇の魂がね」


 叢雲剣むらくものつるぎと同じ力を持った存在が、島にいるというわけだ。台風を引き寄せ、その威力をさらに増幅できる能力を持った禍つ物。

 一点、マリアの言い方に気になることがあって、瑠唯は眉をひそめつつ訊いた。


「逸見さんは人間として存在してるってこと? 意識を乗っ取られているような状態?」

「私みたいに、根っから人外という感じはしなかった。きっと、大蛇が魂の器として人の姿を借りてるのよ。逸見ってのが本名かはわからないけどね――『へみ』は古語で蛇って意味だから、偽名なんじゃないかと思うけど」


 マリアの博識さに言葉を失う朔をよそに、瑠唯はひたすら考えを巡らせた。


 マリアの言う通りならば、八岐大蛇を撃退して島を嵐から守る必要がある。しかし、どうしたらそんなことができるのか、皆目わからない。

 今まで見聞きしたことの中に、手がかりはあるだろうか。瑠唯は必死で記憶を手繰った。


 神であるでうすは、自分でことの落とし前をつけるつもりで、ひとり姿を消した。でも瑠唯は形はどうあれ、壱岐にいる時間の大半を一緒に過ごしたでうすに対し力になりたかった。


 たとえでうすが、助けを必要としていないとしても。


 助け、という言葉がひとつの記憶を呼び覚ました。でうすは瑠唯に、お前の氏神の助けがある、と言っていた。


「私の氏神が、島でのでうすを助けるって言っていた気がする。なにか私にもできることがあるかな」

「氏神……」


 かすかに顔をしかめたマリアが、答えを持っていないことはすぐにわかった。


「氏神って、その家の崇める神様みたいなものだっけ」


 首をかしげるマリアと、おそらくは瑠唯も同じことを考えていた。典型的な信仰心の薄い日本人である瑠唯に、つねづね意識する特定の神はいない。氏神が何を指すのか、さっぱりわからなかった。


「うん。でもでうすは、何の神様なのか言おうとしなかった」


 不意に車内を、まばゆい閃光が照らし出した。風雨だけでなく、雷も勢いを増している。


「瑠唯たちの関わりの深い神社とか、ないの?」

 

 尋ねながらマリアは、朔、そして車外の石段の先をちらりと見やる。


「やっぱり月読神社? 月読命つくよみのみことが助けてくれるってこと?」


 月読命は、潮の流れや暦など、月に関する一切を司る神だ。


「わからないけど、確かに候補はそのくらいしか――」

「違う」


 妙にはっきりと、朔が言い切った。


「瑠唯に氏神がいるとしたら、うちじゃない」

「なんで?」

「藤原氏の氏神は、武御雷たけみかづちだ」


 朔の語調は迷いがなかった。マリアが首を傾げる。


「藤原氏? そういえば瑠唯の名字って、藤原だっけ」

「うん」


 答えながらも、戸惑いを隠しきれなかった。聞いたこともない名前の神だ。


「何の神様なの?」


 探るように尋ねたとき、先ほどの白光に遅れて、唸るような雷音がした。


「雷と剣の神。軍神だ」


 朔が呟いた刹那、家にでうすといたときのことが蘇った。


 奈津に魔切を見せられたとき、でうすはやはり瑠唯の氏神に言及した。刃物である魔切から武御雷に思い至ったのか。


 ふたたび雷光が車内を白く塗りつぶした。瑠唯は窓外を見やった。そうだ。逸見が自分との距離を詰めようとしたときに限って、いつも雷鳴が轟いた。あれが、でうすの近くにいる自分を守るための、氏神のはからいだったとしたら。


「きっと、そうだ」


 無意識のうちに、魔切をバッグ越しに握りしめていた。生地越しに、硬い革のケースの感触がする。この小さな刃物は、瑠唯と武御雷を――ひいてはでうすを、まだ結びつけてくれるだろうか。


「でうすはいなくなる前、私の氏神に用ができたって言ってた。武御雷が祭神の神社って、壱岐にあるかな」


 すがるような気持ちで、朔に尋ねた。朔はすぐに頷いた。


「いくつかある。順に回ろう」

「私も行く。この車使ってよ。ゆうべ燃料入れたばかりだし、瑠唯の車より速いよ」


 マリアの申し出は、これ以上ないほどありがたかった。青嵐のバンは、大型すぎて小回りがきかない。隘路も多い島では、コンパクトカーのほうが機動的に動ける。


「ありがとう。私が運転する」


 瑠唯は、間髪入れずに後部座席のドアを開けた。土砂降りの雨がどっとなだれこみ、まばゆい光があたりを照らし出した。




 ところが、朔に教えられた通りに社を回ってみても、でうすは見当たらなかった。雨は叩きつけるように降り、吹きすさぶ風が体の熱を奪っていく。


「いない」


 横殴りの雨のなか、瑠唯はほとんど叫ぶようにして言った。


 加志神社と呼ばれるそこには、簡素な蔵のような、ごく小さな社だけがあった。苔むした灰色の鳥居に巻きつく注連縄が、ちぎれんばかりに揺れている。周囲に身を隠す場所はない。


 強風が下草をほとんど地面に寝かせているのに、白猫も、もちろん逸見も見当たらなかった。瑠唯は海風に吹き飛ばされそうになりながら、同じく周辺を捜索していた朔を見やった。


「おらん」


 彼も険しい顔で首を振った。衣服も髪も、ずぶ濡れになっている。


 マリアにも声をかけ、車に戻った。エンジンを起動すると、ラジオのニュースが緊張した声で気象情報を伝えていた。壱岐へ向かった台風はかつてない勢力を保ったまま、島全体を呑みこむ見込みだという。島内にいる者は決して戸外に出ないように、と硬い口調でパーソナリティが警告する。


「あてが外れたわね。どうする?」


 ラジオの音量を下げた瑠唯に、マリアが投げかけた。眉をひそめて黙した瑠唯に、朔が気遣わしげに尋ねた。


「でうすは何の神なんだ」

「何回訊いても、教えてくれなかった。きっと、武御雷じゃないんだろうけど」


 でうすの言動を必死で思い返す。彼は何か、ヒントになることを言っていなかっただろうか。


「出雲系の神は嫌いだ、って言ってた。伊勢ででうすが奮闘していたときに助けてくれなかったから。でもどういう意味なのか」

「伊勢は確かに、出雲系の神々が根付いてたと言われてる。でも、そのことに何のつながりが――」


 朔が神職としての知識を総動員するかたわら、瑠唯の耳にふと飛び込んできた単語があった。口にしたのは、朔でも、マリアでもない。考えるまもなく手を伸ばして、ラジオの音量をふたたび上げる。女性パーソナリティが、神妙な声で語っていた。


『伊勢湾台風が本州を襲ったのも、偶然なことに六十年前の今日でした』


 マリアがなにかに気づいた顔をする。一言も聞き逃すまいと、スピーカーの方に身を乗り出した。


『一九五九年、伊勢湾台風は紀伊半島から東海地方にかけて、甚大な被害をもたらしました。死者・行方不明者数は五千を超え、明治以降最悪の台風と言われています』


 固唾をのんだ瑠唯の肩を、助手席の朔がつついた。陰った表情を隠しきれないまま、彼を見据える。


「きっと、風の神様だ。級長津彦命しなつひこのみこと

「シナツヒコ」


 おうむ返しに呟くと、朔が瑠唯の目を見てうなずいた。


「伊勢神宮の宮でも祀られてるけど、壱岐にも社がある。爾自にじ神社へ行こう」


 爾自神社なら、瑠唯にも聞き覚えがある。島の西側に位置する山を登ったところにある、人里離れた神社だ。


「わかった」


 すぐさまギアを替えようとした瑠唯の手を、朔が掴んで止めた。冷え切った手に、朔の肌は不思議なほど温かかった。彼もずっと、風雨に晒されていたはずなのに。


「運転代わる。横風きつくなってきとうやろ」


 朔の言う通り、強風にハンドルを取られそうになる回数が増えていた。疲労も蓄積している。一瞬考えたものの、瑠唯はうなずいた。


「お願い」


 すぐさま朔が助手席のドアを開けた。凍えた手を握りしめてから、瑠唯も運転席の扉を開けた。

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